エクトル・ラボー

この名前は、スペイン語圏の人名慣習に従っています。第一姓(父方の姓)はペレス第二姓(母方の姓)はマルティネスです。
エクトル・ラボー
Héctor Lavoe
出生名 Héctor Juan Pérez Martínez
生誕 (1946-09-30) 1946年9月30日
出身地 プエルトリコの旗 プエルトリコ ポンセ・マチュエロ・アバホ
死没 (1993-06-29) 1993年6月29日(46歳没)
ジャンル サルサ、ボレロ
職業 シンガーソングライター
担当楽器 ボーカル
活動期間 1965年 - 1990年
レーベル ファニア・レコード
共同作業者 ウィリー・コロン、ファニア・オールスターズ
公式サイト hectorlavoe.com

エクトル・ラボーHéctor Lavoe)こと、エクトル・フアン・ペレス・マルティネス(Héctor Juan Pérez Martínez、1946年9月30日 - 1993年6月29日)は、プエルトリコ人のサルサ歌手としてニューヨークを中心に活躍した。

人々は彼のことを、「La Voz(声)」、そして「El Cantante 歌手」と呼んだ。

バイオグラフィ

1946年9月30日にプエルトリコのポンセという町に、エクトル・フアン・ペレス・マルティネス(Héctor Juan Pérez Martínez)として生まれ、プエルトリコ音楽学校に通った。17歳のときに、ニューヨーク市に移りKako All-Starsなどのバンドで活動した。このころ他のラテン系の歌手と区別するために、彼はフェリペ・ロドリゲスのあだ名「La Voz(声)」を採用し、芸名をラボー(Lavoe)に変えた。

1967年には、トロンボーン演奏者のウィリー・コロンとバンドを組んだ。その後は、数々のヒット曲を生み、サルサがラテン界の台風の目となった1970年代前半には「歌手の中の歌手」として押しも押されもせぬ存在となった。そして、ファニア・オールスターズのボーカリストの一員となった。

しかし、活躍とともに精神的な負担が増え、彼は麻薬に依存していく。健康は悪化し、コンサート活動にも支障をきたすようになると、バンドの専属ボーカリストとして契約をうち切られてしまう。

その後は、リハビリに励みつつウィリー・コロンのプロデュースで音楽活動を続ける。その後、父親、息子、および義母の死に続き、自身も麻薬の回し打ちが原因となりHIVと診断される。チケットの売れ行き低調を理由にプロモーターからコンサートをキャンセルされた翌日の1988年6月26日にホテルのバルコニーから飛び降り自殺を図ったが、一命を取り留めた。その後、エイズを発症し、ほとんど活動ができなくなった。

その後は体調が衰え行く中でアルバムを1枚作成したが、1993年6月29日にエイズの合併症により亡くなった。46歳没。

ディスコグラフィ

アルバム

  • La Voz (1975年)
  • 『貴方まかせに』 - De Ti Depende(1976年)
  • 『コメディア』 - Comedia(1978年)
  • Feliz Navidad(1979年)※with ダニエル・サントス、ヨモ・トロ
  • Recordando a Felipe Pirela(1979年)
  • El Sabio(1980年)
  • Que Sentimiento(1981年)
  • Vigilante(1983年)※with ウィリー・コロン
  • Revento(1985年)
  • Strikes Back(1987年)
  • The Master & The Protege with Van Lester(1993年)※ヴァン・レスターとの録音の完全盤
  • 『エクトル・ラボー物語〜悲劇のカンタンテ』 - La Historia De Hector Lavoe(1994年)

フィルモグラフィ

映画

  • Our Latin Thing(1972年)
  • Salsa(1976年)
  • The Last Fight(1983年)
  • Live In Africa(1986年)

伝記映画

関連項目

外部リンク

  • 公式ウェブサイト
  • ファニア・レコード内プロフィール(英語版)
  • エクトル・ラボー - Discogs
  • エクトル・ラボー - IMDb(英語)
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