幕末の年表

幕末の年表(ばくまつのねんぴょう)は、江戸時代後期(幕末)に関する年表

凡例

  • 年月日は旧暦

黒船来航以前

黒船来航以前
年号 内政 外交 その他
1792年寛政4年) ロシア使節アダム・ラクスマン根室に来航。大黒屋光太夫を送還する。老中松平定信は限定的な通商を考慮し、信牌を交付。
1804年享和4年/文化元年) 信牌を持ったロシア使節ニコライ・レザノフ長崎に来航するが交渉不成立。この頃から鎖国は祖法であるとの認識が生まれた。
1806年(文化3年) 文化の薪水給与令 翌年にかけて、レザノフの部下フヴォストフら、蝦夷地北辺を襲撃(文化露寇フヴォストフ事件)。
1807年(文化4年) 薪水給与令が撤回される。
西蝦夷地を幕府直轄地とする。箱館奉行を廃し松前奉行を置く。
1808年(文化5年) フェートン号事件
1811年(文化8年) ゴローニン事件高田屋嘉兵衛を送還する。
1816年(文化13年) イギリス軍艦ライラ号・アルセスト号、琉球に来航。
1818年(文化15年/文政元年) イギリス人ピーター・ゴードン、浦賀に来航。
1824年(文政7年) イギリス捕鯨船員、常陸大津浜に上陸し水戸藩に捕らえられる。
イギリス捕鯨船員、南西諸島の宝島に上陸し騒動を起こす。
1825年(文政8年) 異国船打払令
1828年(文政11年) シーボルト事件
1830年(文政13年) ナサニエル・セイヴァリー白人5人と太平洋諸島出身者25人が小笠原諸島に入植・移住民となる。
1836年天保7年) 天保騒動
1837年(天保8年) 大塩平八郎の乱
徳川家慶が江戸幕府第12代征夷大将軍に就任。
モリソン号事件
1838年(天保9年) 水戸藩主・徳川斉昭、『弘道館記』に尊王攘夷を示す(草案は藤田東湖)。
1839年(天保10年) 蛮社の獄
1840年(天保11年) アヘン戦争(1842年まで)
1841年(天保12年) 天保の改革
1842年(天保13年) 天保の薪水給与令 イギリスと清国南京条約を締結。
1843年(天保14年) イギリス軍艦サマラン号、八重山諸島に上陸し測量を行う。
1844年(天保15年) フランス軍艦アルクメーヌ号、琉球に来航し、宣教師を残す。
オランダ国王ウィレム2世、親書(草案はシーボルト)を送り開国を勧告する。筆頭老中・水野忠邦は開国を主張するも、他老中の賛同を得られず。
1845年弘化2年) 阿部正弘、老中首座となる。阿部により海防掛が常設職とされた。 サマラン号、長崎に来航。
アメリカ捕鯨船(マーケイター・クーパー船長)、浦賀に来航。日本人漂流民を送還する。
1846年(弘化3年) 孝明天皇即位 アメリカ東インド艦隊司令官ジェームズ・ビドル、浦賀に来航し通商条約を求めるが、幕府は拒絶。
1848年嘉永元年) ヨーロッパ諸国で諸国民の春(1848年革命)と呼ばれる自由主義国民主義運動が広まった[1]
1849年嘉永2年) アメリカ軍艦プレブル号(ジェームス・グリン艦長)、アメリカ人漂流民救出のために長崎に来航。
イギリス軍艦マリナー号、浦賀と下田に来航し測量を行う。
1851年(嘉永4年) ジョン万次郎、アメリカ船で帰国。
1852年(嘉永5年) オランダ商館長ヤン・ドンケル・クルティウスオランダ風説書にてアメリカ艦隊来航を通告し、それ以前にオランダとの通商条約を結ぶことを提案するが、幕府はこれを拒否。 11月、米東インド艦隊司令長官マシュー・ペリーが、米国大統領ミラード・フィルモアの親書を携えてバージニア州ノーフォークを出航。

嘉永6年(1853年2月8日 - 1854年1月28日

嘉永7年/安政元年(1854年1月29日 - 1855年2月16日

安政2年(1855年2月17日 - 1856年2月5日)

安政3年(1856年2月6日 - 1857年1月25日

  • 2月13日(1856年3月19日) 洋学教育機関として蕃書調所を九段下に設置(のちの開成所[2]
  • 4月13日(1856年5月16日) 幕府、築地に講武所を開設。幕臣およびその子弟に剣術の他、洋式調練・砲術などを教授。越中島には練兵場も設けられ、洋式陸軍編制の起源となる[2]大坂には安治・木津川の河口に砲台建設の命が下る(実行は1864年の天保山砲台)[3]
  • 7月21日(1856年8月21日タウンゼント・ハリス、米総領事として下田に到着
  • 10月17日(1856年11月14日) 堀田正睦、初の外交主任となる[2]
  • 12月18日(1857年1月13日) 徳川家定、島津斉彬一橋派)の養女篤子と婚儀。

安政4年(1857年1月26日 - 1858年2月13日

安政5年(1858年2月14日 - 1859年2月2日

安政6年(1859年2月3日 - 1860年1月22日

安政7年/万延元年(1860年1月23日 - 1861年2月9日

万延2年/文久元年(1861年2月10日 - 1862年1月29日

文久2年(1862年1月30日 - 1863年2月17日

文久3年(1863年2月18日 - 1864年2月7日

  • 2月2日(1863年3月20日) 尊攘派の台頭により長井雅楽失脚し、切腹を命ぜられる[2]
  • 2月13日(1863年3月31日) 三事策に基づき、徳川家茂上洛のため江戸出立
  • 2月19日(1863年4月6日) 英国代理公使ニール、幕府に東禅寺事件と生麦事件の賠償金合計11万ポンドを要求。戦争になるとの噂が流れ、多くの日本人が横浜を脱出
  • 3月 壬生浪士新選組の前身)結成
  • 3月4日(1863年4月21日徳川家茂上洛。将軍の上洛は徳川家光以来229年ぶり。
  • 4月20日(1863年6月6日) 徳川家茂、孝明天皇に5月10日 をもっての攘夷実行を約束させられる。
  • 5月3日(1863年6月18日) 生麦事件賠償金支払い予定日。攘夷令の影響を受け、幕府、英国に延期を通告
  • 5月5日(1863年6月20日) ニール、英国東インド艦隊司令キューパー提督に、幕府に対する軍事行動を命令。キューパー、横浜から軍艦を江戸に向かわせる
  • 5月9日(1863年6月24日小笠原長行、独断で賠償金11万ポンド全額を支払い、戦争回避。同時に、攘夷令に基づき開港場の閉鎖と外国人の退去を文書で通告するが、口頭で実行の意志がないことも伝える
  • 5月10日(1863年6月25日) 長州藩、下関で外国商船を砲撃(下関戦争
  • 5月12日(1863年6月27日長州五傑、英国領事エイベル・ガウワーの助けを借り、英国留学のため横浜を密出国
  • 5月18日(1863年7月3日) 幕府、文書にて開港場閉鎖と外国人追放を撤回
  • 5月26日(1863年7月11日小笠原長行幕府陸軍1600人を率い、海路横浜を出発、武力上洛を目指す。6月5日、家茂の説得により入京を断念するが、家茂の江戸帰還が認められる。
  • 6月1日(1863年7月15日) 米国、下関に報復攻撃
  • 6月5日(1863年7月19日) フランス、下関に報復攻撃。上陸し一部砲台を破壊。
  • 6月7日(1863年7月21日高杉晋作、藩に奇兵隊編成を建白
  • 7月2日(1863年8月15日薩英戦争
  • 8月13日(1863年9月25日) 会薩同盟成立
  • 8月17日(1863年9月29日天誅組の変。公卿中山忠光を主将とした尊皇攘夷派浪士が大和国で決起するが、9月27日に壊滅。
  • 8月18日(1863年9月30日八月十八日の政変七卿落ち。京都から攘夷派が一掃される。
  • 9月1日(1863年10月13日) 一橋慶喜、鎖港談判の着手勅命を受ける。9月15日、米・蘭との交渉を行うが、両国これを拒否
  • 9月2日(1863年10月14日) 井土ヶ谷事件。攘夷派の浪士によるフランス士官殺傷事件。
  • 10月5日(1863年11月15日) 薩英戦争の講和成立、賠償金2万5千ポンド支払い。この交渉を通じて、薩摩と英国が接近
  • 10月12日(1863年11月22日生野の変平野国臣等尊攘派浪士が但馬国生野で挙兵するも数日で鎮圧される
  • 12月8日(1864年1月16日小栗忠順横須賀製鉄所建設案を幕府に提出
  • 12月29日(1864年2月6日横浜鎖港談判使節団、フランスへ向けて出発
  • 12月29日(1864年2月6日) 日本瑞西国修好通商条約調印(スイス)
  • 12月30日(1864年2月7日) 一橋慶喜・雄藩諸侯(松平慶永山内豊信伊達宗城松平容保島津久光)ら朝議参預に任じられる(参預会議

文久4年/元治元年(1864年2月8日 - 1865年1月26日

  • 1月15日(1864年2月21日) 徳川家茂、再度上洛
  • 2月20日(1864年3月27日讖緯説に基づく甲子革令の年に当たるため元治に改元
  • 3月9日(1864年4月14日) 参与会議瓦解
  • 3月19日(1864年4月24日西郷隆盛、薩摩藩の軍賦役(軍司令官)に任命される
  • 3月22日(1864年4月27日) 第二代フランス公使レオン・ロッシュ着任
  • 3月27日(1864年5月2日天狗党の乱水戸藩執政武田耕雲斎を中心とし、横浜即時鎖港を求め挙兵。12月17日(1865年1月14日)投降
  • 5月 (1864年5月) 神戸海軍操練所設置。江戸幕府軍艦奉行の勝海舟の建言により幕府が神戸に設置した海軍士官養成機関
  • 5月17日(1864年6月20日) 外国奉行池田長発パリ約定締結[2]。横浜鎖港を求めて渡仏したが拒否され、フランス側のさらなる要求を飲まされる。
  • 6月5日(1864年7月8日池田屋事件。長州藩、土佐藩などの攘夷派多数が新選組に斬殺・逮捕される
  • 6月10日(1864年7月13日) 長州五傑の内伊藤俊輔井上聞多、緊急帰国。オールコックの同意を得、長州藩の攘夷中止の説得を試みるが、失敗
  • 7月11日(1864年8月12日佐久間象山暗殺される。
  • 7月19日(1864年8月20日禁門の変。薩摩藩・会津藩が、御所を攻撃した長州藩を京都から駆逐。
  • 7月23日(1864年8月24日)孝明天皇、禁裏守衛総督一橋慶喜を召し、長州を「すみやかに誅伐せよ」と自らの言葉で伝える。長州藩は朝敵とされた
  • 8月3日(1864年9月3日) 将軍家茂、長州藩討伐の令を発す[2]
  • 8月5日(1864年9月5日馬関戦争。英仏蘭米連合軍、下関を攻撃。長州藩敗北。但し、賠償金300万ドルは幕府が支払うことになる
  • 11月18日(1864年12月16日) 第一次長州征伐。征長軍参謀西郷隆盛の妥協案に基づき、長州藩、戦わずして恭順
  • 12月15日(1865年1月12日高杉晋作、下関で挙兵(功山寺挙兵)。長州藩の藩論が倒幕に統一される

元治2年/慶応元年(1865年1月27日 - 1866年2月14日

慶応2年(1866年2月15日 - 1867年2月4日

  • 1月21日(1866年3月7日) 京都で 坂本龍馬の仲介で西郷隆盛小松帯刀桂小五郎会談。薩長同盟成立
  • 1月30日(1866年3月16日アーネスト・サトウ、ジャパン・タイムスに匿名で論文寄稿。将軍を主権者と見なさないとする内容だが、後に翻訳され『英国策論』と題され出版される。井土ヶ谷事件にも言及した
  • 3月1日(1866年4月15日)長州藩主毛利敬親父子に蟄居の幕命下るも無視[2]
  • 4月7日(1866年5月21日) 海外行き許可の認証に関する布告。商用・留学目的の海外渡航が解禁される
  • 5月2日(1866年6月14日) 国産初の蒸気軍艦千代田形就役
  • 5月13日(1866年6月25日) 幕府、英米仏蘭に迫られ改税約書(江戸条約)に調印。輸入関税の引き下げにより、以降輸入が急増
  • 6月7日(1866年7月18日) 富士山丸等幕府艦隊屋代島(周防大島)への砲撃が始まる。第二次長州征伐開始。しかし薩摩藩は出兵を拒否。
  • 6月21日(1866年8月1日) 日白修好通商条約調印(ベルギー)
  • 7月16日(1866年8月25日) 日伊修好通商条約調印
  • 7月20日(1866年8月29日) 将軍家茂、死去(20歳)
  • 8月20日(1866年9月28日小栗忠順、ロッシュの仲介によりフランスからの600万ドルの借款契約に成功。これにより幕府の近代化と軍事力の強化を目指す
  • 8月30日(1866年10月8日)岩倉具視、親幕派の関白二条斉敬や朝彦親王の追放を策謀、同志の大原重徳,中御門経之ら22名が朝廷に列参奏上したが、孝明天皇はこれを退け、逆に22名に対して謹慎等の処分を下した(廷臣二十二卿列参事件)
  • 9月2日(1866年10月10日) 幕府、長州征伐の目的果たせず、講和成立
  • 10月12日(1866年11月18日) 樺太問題協議のため箱館奉行小出秀実をロシアに派遣[2]
  • 11月15日(1866年12月21日) ロッシュ、徳川慶喜の依頼により幕政改革を提言
  • 12月5日(1867年1月10日) 徳川慶喜、十五代将軍に就任
  • 12月7日(1867年1月12日) 日丁修好通商条約調印(デンマーク)
  • 12月8日(1867年1月13日) フランス軍事顧問団、横浜に到着。翌日から幕府陸軍の訓練を開始。
  • 12月12日(1867年1月17日孝明天皇、高熱を発す
  • 12月16日(1867年1月21日)孝明天皇の体に発疹があらわれ疱瘡と診断される
  • 12月23日(1867年1月28日)孝明天皇、膿が収まり、吹出物が乾きはじめ、食欲回復、順調に快復
  • 12月25日(1867年1月30日)孝明天皇、容態劇変、発熱、嘔吐、血便に苦しまれ、亥の刻(午後11時)過ぎ崩御。享年37(満35歳)。
  • 12月~ 慶応の改革。ロッシュの意見を入れ老中の総裁制度(職務明文化)を採用

慶応3年(1867年2月5日 - 1868年1月24日

  • 1月9日(1867年2月13日) 明治天皇即位
  • 1月11日(1867年2月15日徳川昭武、パリ万博のため出発
  • 1月23日(1867年2月27日) 幕府、長州征伐の師を解く[2]
  • 2月6日(1867年3月11日) 徳川慶喜、大坂城でロッシュと会見(同月7日、20日にも会見)
  • 3月25日(1867年4月29日) 徳川慶喜、各国公使を謁見(~29日)。兵庫開港を確約し、各国公使の信頼を得る。このとき、パークスのみが慶喜の敬称を「陛下」ではなく「殿下」とした
  • 4月14日(1867年5月17日) 高杉晋作死去
  • 4月15日(1867年5月18日) フランス新外相ムスティエ、600万ドル借款を拒否。ロッシュ反論するが覆せず。
  • 5月4日(1867年6月6日四侯会議(島津久光、松平慶永、山内豊信、伊達宗城)
  • 5月17日(1867年6月19日赤松小三郎松平慶永に日本最初の議会制民主主義体制の建白書「御改正之一二端奉申上候口上書」を提出。同様の建白書を幕府や薩摩藩の島津久光にも提出した
  • 5月18日(1867年6月20日)京都東山の料亭「近安楼」で土佐藩・板垣退助福岡藤次中岡慎太郎と広島藩・船越洋之助が会見し、武力討幕を密談
  • 5月21日(1867年6月23日)、中岡慎太郎の仲介により、薩摩小松帯刀の寓居(御花畑屋敷)において小松帯刀、西郷隆盛吉井幸輔らと、土佐板垣退助谷干城毛利恭助、中岡慎太郎らが武力討幕を議し薩土討幕の密約を締結
  • 5月22日(1867年6月24日)、板垣退助山内容堂薩土討幕の密約を結んだことを事後報告。容堂は驚くも、これを咎めず、武器調達と軍制改革を板垣へ指示
  • 5月24日(1867年6月26日) 徳川慶喜、四侯会議を制し、兵庫開港の勅許を得る
  • 5月25日(1867年6月27日)四侯会議の不発と薩土討幕の密約を受けて会議を開き、薩摩藩は武力倒幕の方針を固める
  • 5月27日(1867年6月29日板垣退助が中岡慎太郎に武器調達を指示。中岡はこれを受けて大坂でベルギー製活罨式(かつあんしき)アルミニー銃(英語版)(Albini-Braendlin_rifle)300挺を購入
  • 6月10日頃(1867年7月11日頃) 坂本龍馬が土佐藩参政後藤象二郎大政奉還を含む案を提示
  • 9月3日(1867年9月30日)赤松小三郎、薩摩藩の中村半次郎と田代五郎左衛門に暗殺される
  • 9月18日(1867年10月15日)毛利敬親、討幕挙兵の断を下す。「禁闕奉護の処、実に大事の事にて、玉を奪われ候ては実に致し方なき事とはなはだ懸念。かえすがえすも手抜かりはこれ無き筈ながら別して入念に候様」。敬親は大久保一蔵を身近に招き、手ずから短刀一振を与える(大久保一蔵日記)
  • 10月3日(1867年10月29日) 土佐藩主山内豊範、大政奉還の建白書を徳川慶喜に提出
  • 10月6日(1867年11月2日)薩摩藩の大久保利通長州藩品川弥二郎岩倉具視に幕府との戦争に備えて錦旗の使用を提案し製作を指示
  • 10月14日(1867年11月9日)岩倉具視、中山忠能と正親町三条実愛と中御門経之と画策して 討幕の密勅を薩摩藩と長州藩に下す
  • 10月14日(1867年11月9日) 徳川慶喜、政権返上を明治天皇に上奏(大政奉還)。坂本龍馬は「将軍家今日の御心中さこそと察し奉る。よくも断じ給へるものかな。余は誓って公の為に一命を捨てん」と語った(渋沢栄一『徳川慶喜公伝』)。朝廷、これを受けて薩長に倒幕延期の沙汰書を下す。これ以降、武力倒幕の大儀を失った薩摩藩の西郷隆盛は、相楽総三ら尊攘派浪士を用い、江戸で辻斬り・強盗・放火・強姦など凶悪犯罪を繰り返し、幕府側から戦端を開かせようと挑発し続ける
  • 10月24日(1867年11月19日) 徳川慶喜、征夷大将軍辞職を申し出るが、朝廷はこれを認めず
  • 11月15日(1867年12月10日坂本龍馬中岡慎太郎、暗殺される(近江屋事件
  • 11月18日(1867年12月13日)長州藩世子毛利広封、薩摩藩主島津茂久と西郷吉之助と武力討幕の挙兵を計画
  • 11月22日(1867年12月17日)長州藩の木戸孝允、同藩の品川弥二郎宛て書簡に「甘(うま)く玉(ぎょく)を我方へ抱き奉り候御儀、千載の大事」と書く
  • 12月7日(1868年1月1日) ロンドン覚書に従って、兵庫が開港される。それを祝うため、英・米・仏の艦艇17隻が集結。各国公使も大坂に滞在
  • 12月9日(1868年1月3日)岩倉具視、薩摩土佐安芸尾張越前の五藩に王政復古への協力を求める。朝議では長州藩毛利敬親定広父子の官位復旧と入京の許可、岩倉具視ら勅勘堂上公卿の赦免、三条実美ら五卿の赦免などが決められた
  • 12月9日(1868年1月3日)五藩兵が御所の九門を封鎖。摂政二条斉敬や朝彦親王ら親幕府的な朝廷首脳は参内を禁止され、赦免されたばかりの岩倉具視らが参内して 王政復古の大号令を発した。徳川慶喜の将軍職辞職を勅許、江戸幕府廃止、京都守護職京都所司代の廃止、摂政関白の廃止、新たに総裁・議定・参与の三職をおく
  • 12月9日(1868年1月3日)小御所で最初の三職会議が開かれた。山内容堂らは大政奉還を英断した徳川慶喜の出席を求め、慶喜を議長とする諸侯会議政体を主張した。しかし岩倉具視らは慶喜の辞官納地を主張し、会議は紛糾。西郷隆盛の「ただ一匕首(ひしゅ)あるのみ」という言葉が土佐藩に伝えられ、再開された会議では反対する者はなく、慶喜の辞官納地が決定した。ただし松平春嶽らの努力で400万石全納から200万石半納になった
  • 12月10日(1868年1月4日)長州軍、上洛
  • 12月12日(1868年1月6日) 徳川慶喜、二条城を退去。翌日大坂城に到着
  • 12月12日(1868年1月6日)薩摩の強硬な動きに在京諸藩の反発が広がり、肥後藩筑前藩阿波藩などが薩摩軍を御所から引揚げるよう要求する。薩摩藩内部からも大久保・西郷の強硬路線に反発の声が上がる。松平春嶽、「何れも薩の大久保一蔵・岩下左次右衛門・大嶋(西郷)吉之助等、悪まさるものなし。何分ヶ様相成候上からは早ふ真公議会にいたし度と、薩外(土佐安芸尾張越前)は尽く骨折申候」。春嶽は、大久保・西郷を「奸士」と呼び、早く「真公議会」を始めたい、薩摩・土佐・安芸・尾張・越前の五藩だけでは「私議」である、と述べている(松平茂昭宛書簡)
  • 12月14日(1868年1月8日)仁和寺宮(議定)が岩倉や大久保ら身分が低い者の強硬意見を抑えるべく、身分を正すことを求める意見書を提出
  • 12月16日(1868年1月10日) 徳川慶喜、イギリス・フランス・アメリカ・オランダ・イタリア・プロシアの6カ国公使に「全国の衆論を以て我が国の政体を定るまでは、条約を履み、各国と約せし諸件を一々執り行ひ、始終の交際を全うするは余が任にある」と政権維持を宣言
  • 12月19日(1868年1月13日)大久保、新政権の諸外国からの承認獲得と外交の継続を宣言すべく、アーネスト・サトウ(英国公使館)らと協議し、諸外国への通達詔書案を作成。しかしそこに「列藩会議を興し、汝に告ぐる」とあることから、松平春嶽・山内容堂らは、小御所会議は数藩の代表でしかなく列藩会議とは言えないとして、改めて議論すべきと主張
  • 12月19日(1868年1月13日)慶喜、総裁有栖川宮に「天下ノ公議輿論ヲ採リ」「天下列藩ノ衆議ヲ尽シ、公明正大ノ理由ヲ以テ正ヲ挙ゲ奸ヲ退ク」べきとし、それができないなら王政復古の大号令を取消すことを要求。
  • 12月22日(1868年1月19日)朝廷、「徳川祖先ノ制度美事良法ハ其侭被差置、御変更無之之候間」と告諭
  • 12月24日(1868年1月21日)徳川家の納地は「政府之御用途」のため供するという表現となり、慶喜への処分的な色彩は失われれ、納地高も「天下公論の上」すなわち諸侯会議において決定するとされた
  • 12月25日(1868年1月22日) 江戸市中での薩摩藩による度重なる挑発行為に対して、庄内藩薩摩藩江戸藩邸を攻撃
  • 12月28日(1868年1月25日)徳川慶喜、辞官納地を承認。 朝廷、慶喜を前内府として議定に任じることを決定。朝廷、大坂城の慶喜に上洛を命ず。大坂城に薩摩藩邸焼き討ちの経緯が伝わり、「薩摩討つべし」の声が高まる。薩摩藩・西郷隆盛が土佐藩・谷干城へ薩・長・芸の三藩へは既に討幕の勅命が下ったことを示し、薩土討幕の密約に基づき、板垣退助を大将として国元の土佐藩兵を上洛させ参戦することを促す。谷は大仏智積院の土州本陣に戻って、執政・山内隼人(深尾茂延、深尾成質の弟)に報告。

慶応4年/明治元年(1868年1月25日 - 1869年2月10日

  • 1月1日(1868年1月25日)慶喜、「討薩表」を発す。谷干城は、薩土討幕の密約に基づき板垣退助が兵を率いて上洛するよう国元に要請するため、下横目・森脇唯一郎を伴って京都から土佐へ向けて出発
  • 1月2日(1868年1月26日)慶喜、大阪から京都へ向けて出発
  • 1月3日(1868年1月27日) 慶喜の入京を阻止せんとする薩摩兵の一斉射撃によって鳥羽・伏見の戦い起こり、戊辰戦争始まる
  • 1月3日(1868年1月27日)朝廷では緊急会議が召集され、大久保利通は「旧幕府軍の入京は新政府の崩壊であり、徳川征討の布告と錦旗の掲揚が必要」と主張したが、松平春嶽は「これは薩摩藩と旧幕府勢力の私闘であり、朝廷は中立を保つべき」と反対を主張。会議は紛糾したが、議定の岩倉具視が徳川征討に賛成したことで会議の大勢は決した
  • 1月3日(1868年1月27日)「其時西郷氏の話されますには、今日の伏見の戦争はまだ二三ヶ月向である積りであったけれども、全く君等が江戸に於ての尽力に依って昨年の十二月二十五日の事に及で今日の戦争が起った訳で、始めて我輩の愉快な時を得た」(江戸薩摩藩浪士隊副総裁・落合直亮
  • 1月4日(1868年1月28日) 朝廷、仁和寺宮嘉彰親王錦旗節刀を与える。薩長軍、官軍となる。薩土討幕の密約により土佐藩兵が参戦
  • 1月6日(1868年1月30日) 徳川慶喜、大坂城を脱出、海路江戸に戻る。谷干城が土佐に到着。
  • 1月7日(1868年1月31日) 徳川慶喜追討令「彼より兵端を開き候上は慶喜反状明白」。旧幕府側、朝敵となる
  • 1月9日(1868年2月2日板垣退助の失脚が解かれ、土佐藩の軍令首脳に復職
  • 1月11日(1868年2月4日神戸事件備前藩兵、各国外交団を銃撃。明治政府初の外交問題
  • 1月12日(1868年2月5日)小栗忠順は、薩長軍が箱根を降りてきたころを陸軍で迎撃し、同時に榎本率いる旧幕府艦隊を駿河湾に突入させて艦砲射撃で後続補給部隊を壊滅させ、孤立化し補給の途絶えた薩長軍を殲滅する作戦を立てた。それを無視して立ち去ろうとする慶喜の袴の裾を握って決断を迫ったが、慶喜は小栗の解任を言い放ち、裾を払って姿を消した。のちにこの作戦を聞いた大村益次郎は「この策が実行されていたら我々の首はなかった」と語った
  • 1月13日(1868年2月6日)土佐藩が深尾成質を総督、板垣退助を大隊司令として迅衝隊を編成し土佐を出陣
  • 1月14日(1868年2月7日)明治天皇元服し、大赦が行われ、王政復古の国書を各国公使に付す[2]
  • 1月15日(1868年2月8日) 朝廷、東久世通禧を派遣し、各国外交団に対し開国和親・条約遵守を宣言し、神戸事件の交渉開始
  • 1月15日(1868年2月8日) 徳川慶喜、主戦派の中心人物である小栗忠順を正式に解任、恭順の意を表明
  • 1月19日(1868年2月12日) ロッシュ、江戸に戻り徳川慶喜に再起を促すが、慶喜はこれを拒否
  • 1月20日(1868年2月13日青松葉事件発端。この日、尾張藩佐幕派の領袖と目されていた尾張徳川家家老渡辺新左衛門在綱を始め三重臣が名古屋城二丸御殿向屋敷にて斬首され、1月25日(1868年2月18日)までに更に十一名の尾張藩士が処刑される
  • 1月25日(1868年2月18日) パークス、戊辰戦争に対する英国の局外中立を宣言。他国もこれに追従
  • 2月9日(1868年3月2日) 徳川慶喜征伐の部署が置かれ、薩長以下20余藩の兵が配属される。
  • 2月12日(1868年3月5日) 徳川慶喜、江戸城を出て上野・寛永寺に謹慎
  • 2月14日(1868年3月7日) 土佐藩・迅衝隊板垣退助を総督とし、御親征東山道総督府軍先鋒隊として京都より出陣
  • 2月15日(1868年3月8日堺事件
  • 2月23日(1868年3月16日) 勝海舟、陸軍総裁(後に軍事総裁)に任命され、幕府全権として新政府軍との講和を目指す
  • 2月30日(1868年3月23日) 各国公使ら初参内。英国公使パークスは暴徒に襲われ(パークス襲撃事件)、翌月参内する[2]
  • 3月5日(1868年3月28日) 板垣退助率いる土佐藩・迅衝隊が甲府城に入城
  • 3月6日(1868年3月29日) 板垣退助率いる土佐藩・迅衝隊が甲州勝沼で、近藤勇らを撃破
  • 3月13日(1868年4月5日) 勝・西郷会談し、徳川氏処分について協議。パークスの圧力もあり江戸攻撃中止が決定
  • 3月14日(1868年4月6日) 五箇条の御誓文発布[2](公家・大名向け)。
  • 3月15日(1868年4月7日) 五榜の掲示発布(民衆向け)。
  • 3月21日(1868年4月13日) 明治天皇、大坂行幸のため京都を出発。閏4月8日京都に還幸
  • 4月11日(1868年5月3日江戸城無血開城
  • 4月12日(1868年5月4日榎本武揚、旧幕府艦隊の引渡要求を拒否し、軍艦8隻を率いて江戸脱出するも説得され4月17日に4隻を新政府に引き渡す(旧幕府艦隊の脱走)。
  • 閏4月1日(1868年5月22日) パークス、大坂城にてビクトリア女王の信任状を明治天皇に提出(外国による最初の明治政府正式承認)
  • 閏4月6日(1868年5月27日)新政府軍、罪なくして小栗忠順を斬首
  • 閏4月25日(1868年6月15日) 新政府軍、白河への攻撃を開始。会津戦争始まる
  • 5月2日(1868年6月21日) 新政府、長岡藩の中立要請を拒否、北越戦争始まる
  • 5月3日(1868年6月22日奥羽越列藩同盟成立
  • 5月15日(1868年7月4日上野戦争彰義隊、一日で壊滅
  • 7月17日(1868年9月3日江戸を東京と改称
  • 7月29日(1868年9月15日) 新政府軍、越後を平定
  • 8月21日(1868年10月6日) 新政府軍、会津領内に侵攻
  • 8月27日(1868年10月12日)天皇即位式行なわれる[2]
  • 9月8日(1868年10月23日明治に改元、同年1月1日に遡って新元号・明治を適用。一世一元の制を定める[2]
  • 9月16日(1868年10月31日) 榎本武揚ら、開陽丸など旧幕府艦隊主力を率いて品川沖を脱走。ジュール・ブリュネらフランス軍事顧問団の一部もこれに同行
  • 9月20日(1868年11月4日) 明治天皇、東京行幸のため京都を出発
  • 9月22日(1868年11月6日板垣退助率いる御親征東山道先鋒総督府迅衝隊会津藩に勝利
  • 9月23日(1868年11月7日庄内藩降伏、奥羽越列藩同盟瓦解。東北平定する。
  • 10月1日(1868年11月14日)弘道館戦争。旧幕府軍残党が水戸に侵攻するが敗退。
  • 10月6日(1868年11月19日)松山戦争。水戸から転戦した旧幕府軍残党が全滅。本州における地上戦は終結
  • 10月13日(1868年11月26日) 明治天皇、江戸城に到着。名を「東京城」と改める。12月22日京都に還幸
  • 10月22日(1868年12月5日) 榎本軍、箱館府軍と交戦して箱館戦争が始まる。11月22日までに蝦夷地を平定
  • 11月15日(1868年12月28日) 開陽丸、座礁・沈没
  • 12月15日(1869年1月27日蝦夷共和国成立
  • 12月28日(1869年2月9日) 諸外国、局外中立を解除。明治政府が日本の唯一の正統政府とみなされる。

明治2年(1869年2月11日 - 1870年1月31日

  • 1月5日(1869年2月15日横井小楠、京都にて暗殺される
  • 2月3日(1869年3月15日) 米国、中立解除につき新政府に装甲艦甲鉄を引渡し。新政府軍の海軍力が蝦夷共和国軍を上回る
  • 3月6日(1869年4月17日)山縣有朋西郷従道、軍制調査のため渡欧[2]
  • 3月7日(1869年4月18日) 公議所開設[5]
  • 3月25日(1869年5月6日宮古湾海戦。蝦夷共和国軍、甲鉄の奪取を試みるも失敗
  • 3月28日(1869年5月9日) 明治天皇、東京城に到着、「皇城」と称する。これより実質的に東京が首都となる
  • 4月9日(1869年5月20日) 新政府軍、蝦夷地に上陸
  • 5月18日(1869年6月27日) 榎本武揚、新政府軍に降伏。箱館戦争終結
  • 6月17日(1869年7月25日)諸侯に版籍奉還が勅許される[2]
  • 9月4日(1869年10月8日)兵部大輔大村益次郎刺客に襲われ、11月5日逝去[2]。(→明治#年表)

脚注

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  1. ^ 旺文社世界史事典 三訂版「諸国民の春」
  2. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w x y z aa ab ac ad ae af ag ah ai aj ak al am an ao ap aq ar as at au av 大正の青年と帝国の前途年表『大正の青年と帝国の前途』徳富猪一郎、民友社、1916, p1-10
  3. ^ 1864(元治元)年天保山台場(砲台)構築 大阪市港区役所、2016年2月15日
  4. ^ 幕末の外国人襲撃事件については「幕末の外国人襲撃・殺害事件」を参照。
  5. ^ 公議所 こうぎしょ コトパンク

関連項目