河崎なつ

河崎 なつ
かわさき なつ
1931年12月撮影
生年月日 1889年6月25日
出生地 奈良県五條市
没年月日 (1966-11-16) 1966年11月16日(77歳没)
出身校 奈良師範学校
所属政党 日本社会党

選挙区 全国区
当選回数 1回
在任期間 1947年5月3日 - 1953年5月2日
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河崎 なつ(かわさき なつ、1889年6月25日 - 1966年11月16日[1])は、日本の政治家女性解放運動家、評論家教師。「母親がかわれば社会がかわる」を唱えて第二次世界大戦後の第1回参院選全国区から日本社会党公認で立候補し初当選。参議院議員を1期務めた[2]。教師として、西村伊作、与謝野夫婦(与謝野鉄幹与謝野晶子)らと共に1921年に文化学院を創立し、自らも国語の授業を行った。

来歴・人物

婦選獲得同盟のメンバー。左から3人目が金子しげり、一人おいて市川房枝坂本真琴、一人おいて久布白落実、そして右端が河崎なつ。1925年撮影。
1955年7月、スイスのローザンヌで世界母親大会が開かれ、日本からは河崎を団長とする母親たち14人が参加した。河崎らは大会終了後、モスクワに立ち寄った。赤の広場にて撮影。中央の人物が河崎[3]

奈良県五條市出身。父・河崎常三郎、母・ さとのあいだに長女として誕生。兄には久太郎、徳太郎、繁太郎の3人を持つ。さとはなつを産んでまもなく結核で死去。常三郎はその後、継母・とみをむかえ、妹・ちかを持つことになった。父は時計屋。奈良師範学校出身。家の近くに芝居小屋があり、そこでよく歌舞伎芝居狂言を見ていたため、狂言では立役女形をこなすことができた。

五條市立五條小学校の教師をしていた1921年に文化学院の創立に関わり、1921年-1941年まで文化学院の教師を務めた。その間1924年婦人参政権獲得期成同盟会の中央委員を務めた。

1947年の第1回参院選で初当選。日本社会党参議院議員を務めたが、次期参院選で落選した。

1955年日本母親大会実行委員長を務めた。落選後も白梅学園短大教授などをつとめ、累計約60年間教師生活を送った[2]。墓所は青山霊園の無名戦士墓。

教師時代

文化学院創立時、学院内で教員経験を持っていたのは河崎だけであった。生徒との接触は一番多く、そのため学院のお母さん的存在だったと言われている。河崎は国語の授業を担当しており、その時の教科書は学院内で作っていた。授業は脱線することが多く、狂言を生徒の前で発表したりもしていた。また、女性の立場というものをよく考えていて、自分でも行動し、生徒にもよく語り、生徒自身にも女性の立場を考えさせていた。

著書

  • 『職業婦人を志す人のために』 現人社 1932 のち大空社から復刊
  • 『新女性読本』 文芸春秋社 1933 のちゆまに書房から復刊
  • 『明日に生きる女性』 交蘭社 1934  のち大空社から復刊
  • 『叢書女性論 33の詳細』1996年5月 ISBN 9784756801920
  • 『女の暦・姉妹たちよ 1993年版』日本図書センター3月

脚注

[脚注の使い方]
  1. ^ 『河崎なつ』 - コトバンク
  2. ^ a b 『河崎 なつ』 - コトバンク
  3. ^ 『画報現代史 補巻第15集』国際文化情報社、1957年10月15日。

参考文献

  • 林光『母親がかわれば社会がかわる 河崎なつ伝』草土文化、1974年6月15日。

関連項目

外部リンク

ウィキメディア・コモンズには、河崎なつに関連するカテゴリがあります。
  • 『河崎なつ』 - コトバンク
  • 文化学院
  • 国立国会図書館近代デジタルコレクション「河崎なつ」
議会
先代
山下義信
日本の旗 参議院厚生委員長
1951年
次代
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第1回
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3年議員
偶数回
第2回
(定数50)
3年議員
第4回
(定数50)
3年議員
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(定数50)
3年議員
第8回
(定数50)
3年議員
第10回
(定数50)
3年議員
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(定数50)
奇数回
第3回
(定数50)
3年議員
第5回
(定数50)
3年議員
第7回
(定数50)
3年議員
第9回
(定数50)
第11回
(定数50)
†:当選無効・失格など、↓:途中辞職・死去など、↑:繰上げ当選または補欠選挙で当選(合併選挙で当選した3年議員を除く)。
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