1934年フランスグランプリのスタート前の様子。ドイツ勢は信頼性の問題で脱落し、スクーデリア・フェラーリのルイ・シロンが優勝した。 1934年のグランプリ・シーズンはAIACRヨーロッパ・ドライバーズ選手権のタイトルが設けられなかった2年間におけるグランプリ・シーズンである。 アキーレ・ヴァルツィが6つのグランプリに勝利して最多勝を挙げたドライバーとなった。アルファロメオのマシンが開催された35のグランプリのうち18を制し1934年シーズンを席巻した。
シーズン概要
1934年シーズンは750kgフォーミュラが施行される最初のグランプリ・シーズンとなった。新レギュレーションの狙いは、パワーの増加で危険性が増したグランプリマシンのスピードを抑制することにあったが、結果的に軽量かつハイパワーのマシンが登場し、グランプリは更に高速化した[1]。好転する経済状況の中、メルセデス・ベンツはグランプリに復帰することを決定し、新レギュレーションに合わせてメルセデス・ベンツ・W25を開発した。新興のアウトウニオンもまた自社の知名度を上げるべく フェルディナンド・ポルシェの設計図を利用したアウトウニオン・タイプAで参戦した[1][2]。 7月のフランスグランプリに登場したメルセデスW25とアウトウニオン・タイプAはアルファロメオ・P3やブガッティ・T59(英語版)、マセラティ・8CM(英語版)といったライバルを大きく上回る性能を見せたが、信頼性の問題から共にリタイアした。ドイツグランプリ以降のグラン・エプルーヴはドイツ勢の独壇場となり、関税をめぐる揉め事への抗議からドイツ勢が棄権したベルギーグランプリを除いて全勝した[1]。メルセデスで復帰したカラツィオラは9月のイタリアグランプリで久しぶりの勝利を挙げたが、負傷の影響からレース途中でファジオーリと交代することを余儀なくされた[3]。スクーデリア・フェラーリのギ・モル(英語版)は24歳という若さながらモナコグランプリでルイ・シロンを退けて優勝したほか、アウトウニオン勢との対決となったアヴスレンネンでも優勝するなど活躍したが、8月にペスカーラ・サーキットで行われたコッパ・アチェルボのレース中に事故死した。
グラン・エプルーヴ
その他のグランプリ
シーズン結果
グランプリ優勝者
ドライバー
コンストラクター
参考文献
- Etzrodt, Hans. “Grand Prix Winners 1895–1949 : Part 3 (1934–1949)”. The Golden Era of Grand Prix Racing. 2007年8月6日時点のオリジナルよりアーカイブ。2007年8月5日閲覧。
- Leif Snellman and Hans Etzrodt. “1934”. The Golden Era of Grand Prix Racing. 2007年7月1日時点のオリジナルよりアーカイブ。2007年8月5日閲覧。
- Galpin, Darren. “1934 Grands Prix”. The GEL Motorsport Information Page. 2007年8月5日閲覧。
脚注
- ^ a b c Etzrodt, Hans. “1934 GRAND PRIX SEASON”. The Golden Era of Grand Prix Racing. 2016年11月15日閲覧。
- ^ ノイバウア, アルフレッド 著、橋本茂春 訳『スピードこそ我が命』荒地出版社、1968年、61頁。
- ^ カラツィオラ, ルドルフ 著、高斎正 訳『カラツィオラ自伝』二玄社、1969年、86-87頁。