トーマス・オマリー

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トーマス・オマリー
Thomas O'Malley
阪神タイガースでのコーチ時代
(2014年7月6日、横浜スタジアムにて)
基本情報
国籍 アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国
出身地 ニュージャージー州オレンジ
生年月日 (1960-12-25) 1960年12月25日(63歳)
身長
体重
6' 1" =約185.4 cm
195 lb =約88.5 kg
選手情報
投球・打席 右投左打
ポジション 一塁手三塁手
プロ入り 1979年 MLBドラフト16巡目
初出場 MLB / 1982年5月8日
NPB / 1991年4月6日
最終出場 MLB / 1990年10月3日
NPB / 1996年10月9日
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)
選手歴
監督・コーチ歴
この表について
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トーマス・パトリック・オマリーThomas Patrick O'Malley, 1960年12月25日 - )は、アメリカ合衆国ニュージャージー州出身の元プロ野球選手内野手、右投左打)、監督コーチ。アメリカ球界での登録名トム・オマリー(Tom O'Malley)。アイルランド系アメリカ人である。

経歴

MLB時代

サンフランシスコ・ジャイアンツ時代
(1983年)

1982年5月8日にサンフランシスコ・ジャイアンツメジャーデビューを果たし、以後9年間プレーするもののメジャーには定着できず、以後、シカゴ・ホワイトソックス - ボルチモア・オリオールズ - テキサス・レンジャーズ - モントリオール・エクスポズ(現:ワシントン・ナショナルズ) - ニューヨーク・メッツと複数の球団を渡り歩くも、1983年のシーズンを除いてレギュラー選手としての成績は残せなかった。

阪神時代

1991年阪神タイガースに入団し、来日。初の春季キャンプでは川上哲治から『今年の外国人選手では一番すばらしい』と評価される。

ビジターの試合で球団カラーの黒ではなくグレーのアンダーシャツを着ていた。これはアメリカ時代のシャツをそのまま愛用していたためである。また、ベンチで帽子を前後逆に被る、メジャーリーグにある『逆転のおまじない』をベンチに持ち込んだ。翌1992年から亀山努らナインがオマリーに倣って帽子を逆にする姿が恒例となった。

1992年、前年オフに大洋を解雇されたジム・パチョレックが阪神に入団する。このパチョレックとのコンビで、新庄剛志、亀山努ら若手選手と共に低迷していた阪神の2位躍進に貢献。同年はパチョレックの入団に伴い三塁に転向し、ゴールデングラブ賞を獲得した。

1993年は、オリックスから松永浩美が加入し再び一塁にコンバートされた。オールスターゲーム第2戦でMVPを獲得した。ヒーローインタビューの時の『ハンシンファンワ、イチバンヤァー!(阪神ファンは一番やー!)』を決まり文句とした。また、オマリーと共に在籍した外国人選手のパチョレック(同年退団)と郭李建夫が好調の時、当時の日本野球機構の規定では外国人選手が2人までしか出場できないことから、3人の姓の頭文字をとり『(阪神)PKO問題』と報じられていた[注 1]

さらに同年は、首位打者のタイトルを獲得した[2]。タイトル争いに際しては、横浜のロバート・ローズと最終戦まで競り合い、執念を見せた。10月20日終了時点で、ローズは2試合残して480打数157安打で打率.3271、オマリーは1試合残して432打数141安打で打率.3264であり、10月21日に阪神が全日程を終了し、10月22日にダブルヘッダーで横浜が全日程を終了する予定だった。オマリーは最終戦、1打席目にヒットを放って打率.3279とローズを逆転したが、試合の日程上再逆転の可能性もあったため、ベンチに退かずに第2打席も登場して意表を突くセーフティバントを決めて打率を.3294に伸ばしてベンチに退いた。翌日、横浜は最終ダブルヘッダーを迎え、1試合目にローズは4打数1安打で打率を.3264に下げ、2試合目は再逆転を狙って1番打者で登場するも、2打席凡退して再逆転がほぼ不可能になって(残り3打席連続安打でも.3292で逆転不可能)ベンチに退いたため、オマリーが首位打者を獲得した。OPSもリーグ一位だった。

しかし、長打力不足であることや守備が緩慢だったことを理由に球団の戦力構想から外れ、1994年オフに自由契約となった[3]。オマリー自身も、オールスターゲームで当時巨人監督の長嶋茂雄に対し「ライネンキョジン(来年、巨人)」と移籍をアピールするなど、阪神のフロントに不信感を募らせていた。

阪神時代は神戸の自宅に当時100万円相当のFAX機器を設置し、アメリカに住む両親と毎日のように連絡を取り合っていた[4]

阪神球団はオマリーをオリックスへ金銭トレードに出す予定でいたが、本人の強い希望で12月17日にセリーグのヤクルトスワローズに移籍することが決まった[5]

ヤクルト時代

1995年は打率.302、打点87、自己最多の31本塁打を記録し[6]、チームのセントラル・リーグ優勝に大きく貢献した。ヒーローインタビューの決め台詞も「ヤクルトファンノ、オウエン、クダサーイ!(ヤクルトファンの応援ください)」に変わった。故意四球をシーズン23個を記録したがこれは球団記録となった[7]

オリックスとの日本シリーズでもMVPに輝き、チームの日本一にも大きく貢献[6]。この時の小林宏投手との14球にわたる対戦は、「小林-オマリーの14球」として同年日本シリーズの名場面として語り継がれている。同年のシーズンMVPを獲得。日本プロ野球史上外国人選手としては初の、ペナントレース・日本シリーズ・オールスターゲームの3つでMVPを獲得した選手となった。

1996年、外国人選手初の6年連続打率3割を達成しキャリアハイの打点を記録したが、同年オフに監督の野村克也が巨人を退団した落合博満の獲得を強く望んだため(落合の入団は日本ハムファイターズとの争奪戦に敗れて実現せず)、契約上の問題が生じたとして10月24日にヤクルト退団が発表された。その後西武ライオンズが獲得調査との報道があったが実現せず、テキサス・レンジャーズに招待選手としてキャンプ参加するが解雇されそのまま現役を引退。

現役引退後

1998年から2001年までアメリカ独立リーグニューアーク・ベアーズ初代監督を務めた。1年目には、選手としても2試合に出場している[8]

2001年、阪神春季キャンプにヤクルト時代の監督でもあった野村を表敬訪問。その際に外国人選手へのアドバイスが高く評価されて翌年の阪神コーチ就任が濃厚となるが、野村の退団に伴い白紙に。しかし、その際の口約束のためにベアーズ監督を辞任していたことから、翌2002年の春季キャンプの臨時打撃コーチとして阪神に復帰。そのキャンプ中の熱心な指導が監督の星野仙一にも評価され、そのまま特命コーチとしてシーズン中もチームに帯同したが、試合ではスコアラー登録でベンチ入りしたため、ジャージを着用していた。2002年から2003年までの特命コーチ時代はジョージ・アリアストレイ・ムーアジェフ・ウィリアムスジェロッド・リガンらを指導するなど外国人選手の支えとなり、2003年のリーグ優勝に貢献した。岡田彰布の監督就任によりコーチを退任。

2004年、阪神の駐米スカウトに就任。同年10月、ライブドアベースボールの監督就任を要請され受諾したが、同球団の日本プロフェッショナル野球組織への参入が無くなったため白紙になった。その後も阪神の駐米スカウトとして活動したが、ルー・フォードケビン・メンチと獲得に携わった外国人選手が結果を残せなかったため[9]2009年11月、阪神との契約を解除された。

阪神スカウト解任後は、プロ野球交渉代理人アーン・テレムの事務所に所属し、日本人選手のメジャーリーグ進出への橋渡し役として活躍していた[10]

2013年10月に、阪神の一軍打撃コーチ補佐として、9年振りに現場へ復帰した[11]。ただし、2015年までは、コーチ枠の関係でユニフォームは着用せず、トレーナーとしてジャージを着用してベンチ入りをしていた。2016年10月27日に今季限りのコーチ契約であることを伝えられた[12]

2018年と2019年、アメリカの高校ソフトボールチームでコーチを務めた[13]

選手としての特徴

非常に選球眼が優れ、また投手の配球を読むことに長けた選手で、外国人選手初の6年連続打率3割を達成するなど、打撃面では安定した好成績を残した。しかし、守備中にバントシフトをとらないなど怠慢な姿勢も見られた。長嶋茂雄に憧れており、小さなヘルメットを浅く被っていた(長嶋のように、スイングを行った際メットが飛ぶようにするため)。また、よくガムを噛みながらオープンスタンスで打席に立っていた。

詳細情報

年度別打撃成績

















































O
P
S
1982 SF 92 327 291 26 80 12 4 2 106 27 0 3 1 1 33 9 1 39 11 .275 .350 .364 .714
1983 135 473 410 40 106 16 1 5 139 45 2 4 4 3 52 4 4 47 12 .259 .345 .339 .684
1984 13 27 25 2 3 0 0 0 3 0 0 0 0 0 2 0 0 2 0 .120 .185 .120 .305
CHW 12 16 16 0 2 0 0 0 2 3 0 0 0 0 0 0 0 5 1 .125 .125 .125 .250
'84計 25 43 41 2 5 0 0 0 5 3 0 0 0 0 2 0 0 7 1 .122 .163 .122 .285
1985 BAL 8 14 14 1 1 0 0 1 4 2 0 0 0 0 0 0 0 2 1 .071 .071 .286 .357
1986 56 200 181 19 46 9 0 1 58 18 0 1 1 1 17 1 0 21 4 .254 .317 .320 .637
1987 TEX 45 134 117 10 32 8 0 1 43 12 0 0 0 2 15 1 0 9 7 .274 .351 .368 .718
1988 MON 14 31 27 3 7 0 0 0 7 2 0 0 0 1 3 1 0 4 0 .259 .323 .259 .582
1989 NYM 9 11 11 2 6 2 0 0 8 8 0 0 0 0 0 0 0 2 0 .545 .545 .727 1.273
1990 82 133 121 14 27 7 0 3 43 14 0 0 0 1 11 1 0 20 1 .223 .286 .355 .641
1991 阪神 130 537 476 61 146 29 0 21 238 81 0 1 0 2 57 1 2 83 10 .307 .382 .500 .882
1992 111 478 381 55 124 30 2 15 203 62 3 1 0 1 94 7 2 70 8 .325 .460 .533 .993
1993 125 515 434 60 143 32 1 23 246 87 1 1 0 4 75 10 2 71 10 .329 .427 .567 .994
1994 124 524 430 61 135 18 2 15 202 74 2 1 0 4 89 17 1 74 15 .314 .429 .470 .899
1995 ヤクルト 125 524 421 83 127 20 0 31 240 87 6 6 0 5 96 23 2 57 8 .302 .429 .570 .999
1996 127 541 461 56 145 23 0 18 222 97 3 4 0 5 74 8 1 70 19 .315 .407 .482 .888
MLB:9年 466 1366 1213 117 310 54 5 13 413 131 2 8 6 9 133 17 5 151 37 .256 .329 .340 .670
NPB:6年 742 3119 2603 376 820 152 5 123 1351 488 15 14 0 21 485 66 10 425 70 .315 .422 .519 .941
  • 各年度の太字はリーグ最高

年度別監督成績

アメリカ独立リーグ
年度 チーム 前・後期 試合 勝利 敗戦 引分 勝率 順位
1998 ニューアーク・ベアーズ 前期 50 18 32 0 .360 5位
後期 50 17 33 0 .340 6位
1999 前期 59 24 35 0 .406 5位
後期 60 31 29 0 .516 3位
2000 前期 70 38 32 0 .542 3位
後期 70 36 34 0 .514 4位
2001 前期 63 38 25 0 .603 1位
後期 63 37 26 0 .587 2位

タイトル

NPB
  • 首位打者:1回 (1993年)
  • 最高出塁率:4回 (1992年 - 1995年)
  • 最多勝利打点:2回 (1995年、1996年) ※特別賞

表彰

NPB
  • 最優秀選手:1回 (1995年)
  • ベストナイン:1回 (1995年)
  • ゴールデングラブ賞:1回 (1992年)
  • オールスターゲームMVP:1回 (1993年 第2戦)
  • 日本シリーズMVP:1回 (1995年
  • 月間MVP:3回 (1994年5月、1995年4月、1995年8月)
  • 優秀JCB・MEP賞:1回 (1995年)

記録

NPB初記録
NPB節目の記録
NPBその他の記録
  • 4年連続最高出塁率(1992年 - 1995年) ※史上2人目[注 2]
  • 6年連続打率3割(1991年 - 1996年) ※外国人選手史上初
  • オールスターゲーム出場:3回 (1993年、1994年、1996年)

背番号

  • 35 (1982年 - 1984年途中)
  • 26 (1984年途中 - 同年終了)
  • 17 (1985年 - 1986年)
  • 41 (1987年)
  • 23 (1988年)
  • 27 (1989年 - 1990年)
  • 1 (1991年 - 1994年)
  • 3 (1995年 - 1996年)
  • 89 (2002年 - 2003年)
  • 80 (2014年 - 2016年)

関連情報

オマリーの六甲おろし

90年代にCD発表。1番は日本語、2番は英語。
その個性的な歌唱は強烈に聴く者に強いインパクトを与え、山下達郎星野源が自身の担当ラジオ番組でその高いメッセージ性を伝えている。
この系譜を受け継いで、長年伝え続けているのが山陰放送アナウンサーの桑本充悦(現在は桑本みつよし名義で活動)である。桑本が熱烈なタイガースファンであり、シーズンオフには自身の担当番組あさスタで、そのオマリーの絶妙な歌唱を流し、タイガース選手、監督、コーチそして阪神ファンをねぎらうのが通年の風物詩になっていた。
ただ、CS敗退、Bクラス決定時に流すことを定番としていた勝負弱さを見せた過去とは違い、2023年はリーグ優勝、そして38年ぶりの悲願の日本一を達成したため、オマリーの圧倒的歌唱をオンエアで流すことに桑本はじめスタッフも戸惑いがあったようだ。
しかし全国のあさスタ♪リスナーからの強いリクエストもあったようであり、2023年11月8日、午前10時過ぎに放送され、多方面から好意的反響を呼んでいる。
ラジオ番組
1993年・1994年に、CM明けのジングル音声を担当(デーゲーム中継や阪神戦以外の試合も含む)。
テレビ番組
選手引退後の1997年10月18日に出演(上岡龍太郎がゲストの回)。歌のコーナーで登場し、後述する阪神タイガースの球団歌「阪神タイガースの歌」(六甲おろし)を歌唱した[14]
選手引退後の2018年5月6日に出演。野球対決での「レジェンド9」の1人として登場。

広告出演

阪神特命コーチ及び駐米スカウト時代(2003年 - 2009年)にテレビCM出演。阪神甲子園球場(同社運営)に駐車場がない事への告知および阪神電車での来場を促すCMであり、日本語関西弁まじり)で「コウシエンキュウジョウニハ、チュウシャジョウハ、アリマヘーン(甲子園球場には、駐車場はありまへーん)。」「ハンシンデンシャガ、イチバンヤー(阪神電車が、一番やー)!」としゃべるCMだった。2007年2008年は、当時阪神投手のライアン・ボーグルソンの夫人ニコール・ボーグルソンと共演した(ニコールが英語でしゃべり、それをオマリーが日本語訳する形式だった)。駐米スカウト契約解除により2009年度を以って降板。翌年からのCMは川藤幸三が引き継いだ。

CD

ポリスターレコードから発売され6万枚を売り上げた。このCDに収録されている「六甲おろし」(CDでの曲名は「オマリーの六甲おろし」)があまりに音痴であるとして一部で注目を集め、ラジオ番組コサキンDEワァオ!」(TBSラジオ)でも取り上げられた。また、朝日放送ラジオよなよな…』では阪神ファン増田英彦ますだおかだ)が出演する火曜日の放送で流していた[15]。1番の歌詞が日本語、2番の歌詞が英語である。
また、引退後には先述のテレビ番組『LOVE LOVEあいしてる』にもゲストとして招かれ、生歌で六甲おろしを披露した。後日、吉田拓郎はこの回の演奏について「人生で一番音楽を辞めたくなった瞬間だった」と発言している。この場面は2022年7月21日に放送された同番組の最終回スペシャルでも放映された[16]
2012年1月9日にNHK-FMで10時間にわたって放送された『セパ対抗!今日は一日“プロ野球ソング”三昧』でも紹介され、MVS(最優秀ソング)に選ばれた[17]
2014年9月10日にデジタルリマスター復刻盤がリリースされた。

脚注

[脚注の使い方]

注釈

  1. ^ 後に自身が一軍へ定着し、パチョレック (P) と郭李 (K) の争いとなった際には「PK合戦」と報じられた。[1]
  2. ^ 現行の計算式になった1985年以降。

出典

  1. ^ “「PKO問題」から「PK合戦」になり、最後は郭李建夫の不戦勝?【1993年8月28日】”. ニコニコニュース (2017年8月28日). 2017年8月28日閲覧。
  2. ^ 『阪神タイガース 暗黒ダメ虎史 あのとき虎は弱かった』p.112
  3. ^ 『阪神タイガース 暗黒ダメ虎史 あのとき虎は弱かった』p.113
  4. ^ ベースボールマガジン、2011年9月号 P63
  5. ^ 阪神のオマリーが、移籍先に同リーグのヤクルトを選んだ理由とは?/平成助っ人賛歌【プロ野球死亡遊戯】
  6. ^ a b 『阪神タイガース 暗黒ダメ虎史 あのとき虎は弱かった』p.114
  7. ^ “ヤクルトが快勝でマジック4に 村上は生みの苦しみ5戦連続不発 球団タイ記録の23個目の故意四球” (2022年9月21日). 2022年9月21日閲覧。
  8. ^ http://www.thebaseballcube.com/players/profile.asp?ID=16160
  9. ^ 『阪神タイガース 暗黒ダメ虎史 あのとき虎は弱かった』p.115
  10. ^ オマリー氏、虎視眈々 日本人メジャーリーガー発掘を目指す - スポーツ - ZAKZAK(2010年5月14日付)(2010年5月17日時点のアーカイブ
  11. ^ オマリー氏、虎1軍打撃C就任決定!掛布氏とビシバシ地獄キャンプ(2013年10月23日時点のアーカイブ
  12. ^ 来季のコーチ契約について
  13. ^ 元阪神オマリー氏、米国ではソフトボールの名コーチ 地元紙「素晴らしい財産を与えた」
  14. ^ 【LOVE LOVE 堂本兄弟 10周年記念生放送スペシャル!!】、フジテレビジョン、2006年9月29日。
  15. ^ “よなよな…の放送楽曲(2019年7月)”. 朝日放送ラジオ. 2021年9月30日閲覧。
  16. ^ “元阪神・オマリーさんが歌う伝説の「六甲おろし」に「令和に地上波で聴けるとは」プロ野球ファン歓喜”. 中日スポーツ・東京中日スポーツ (2022年7月21日). 2022年7月23日閲覧。
  17. ^ セパ対抗!今日は一日“プロ野球ソング”三昧(2012年5月8日時点のアーカイブ

関連項目

外部リンク

ウィキメディア・コモンズには、トーマス・オマリーに関連するカテゴリがあります。
  • 選手の通算成績と情報 MLB、ESPN、Baseball-Reference、Fangraphs、The Baseball Cube、Baseball-Reference (Register)
  • 個人年度別成績 トーマス・オマリー - NPB.jp 日本野球機構
 
業績
1950年代
1960年代
1970年代
1980年代
1990年代
2000年代
2010年代
2020年代
日本プロ野球オールスターゲームMVP
1950年代
1960年代
1970年代
1980年代
1990年代
2000年代
2010年代
2020年代
セントラル・リーグMVP
1950年代
1960年代
1970年代
1980年代
1990年代
2000年代
2010年代
2020年代
セントラル・リーグ首位打者
1950年代
1960年代
1970年代
1980年代
1990年代
2000年代
2010年代
2020年代
セントラル・リーグ最高出塁率
1960年代
1970年代
1980年代
1990年代
2000年代
2010年代
2020年代
1967年から1984年までは最多出塁数。1985年以降は最高出塁率。
1980年代
1990年代
2000年代
注記

1981年から1988年まではNPB打撃タイトル
1989年から2000年まではセ・リーグ特別賞
2000年限りで廃止

セントラル・リーグ ベストナイン(一塁手)
1950年代
1960年代
1970年代
1980年代
1990年代
2000年代
2010年代
2020年代
1970年代
1980年代
1990年代
2000年代
2010年代
2020年代
1972年から1985年まではダイヤモンドグラブ賞
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