宮本慎也

曖昧さ回避 医学者の「宮本信也」とは別人です。
宮本 慎也
2010年8月8日 横浜スタジアムにて
基本情報
国籍 日本の旗 日本
出身地 大阪府吹田市
生年月日 (1970-11-05) 1970年11月5日(53歳)
身長
体重
176 cm
82 kg
選手情報
投球・打席 右投右打
ポジション 遊撃手三塁手二塁手
プロ入り 1994年 ドラフト2位(逆指名)
初出場 1995年4月11日
最終出場 2013年10月4日(引退試合)
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)
選手歴
コーチ歴
  • 東京ヤクルトスワローズ (2009 - 2013, 2018 - 2019)
国際大会
代表チーム 日本の旗 日本
五輪 2004年2008年
WBC 2006年
この表について
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プロジェクト:野球選手  ■テンプレート

オリンピック
男子 野球
2004 野球
ワールド・ベースボール・クラシック
2006 野球

宮本 慎也(みやもと しんや、1970年11月5日 - )は、大阪府吹田市出身の元プロ野球選手内野手)、プロ野球コーチ。元日本プロ野球選手会会長。日本プロ野球名球会理事。

現役時代は一貫して、ヤクルトスワローズ→東京ヤクルトスワローズに在籍。アテネオリンピック野球日本代表2004年)・北京オリンピック野球日本代表2008年)ではキャプテンを務め、2009年から現役最終年の2013年までは、一軍打撃コーチも兼務した。2014年からは、日刊スポーツ野球評論家NHK野球解説者として活動し、2018年と2019年は東京ヤクルトスワローズの一軍ヘッドコーチに就任していた。

シーズン67犠打の日本記録保持者[1]アテネオリンピック野球の銅メダリスト。

現在の所属事務所は、株式会社トリプルエス。

経歴

プロ入り前

幼少期を愛媛県で過ごす。小学3年の時に軟式野球チームに入る。4年の時に5年のチームに抜擢ばってきされ投手を務める。 中学ではシニアリーグのチームに入るが、練習で3球投げたところで投手は無理とみなされ内野を守ることになる。小柄だったため無理にでも食べるよう父親に言われ実行した結果、3年になって急激に身長が伸びた。二塁手として出場した全国大会では決勝で敗れたものの、そこでのプレーがPL学園関係者の目に留まり、受験を勧められる。

進学したPL学園では1学年上に立浪和義片岡篤史橋本清野村弘樹が、1学年下に野々垣武志が、2学年下に入来祐作がいた。体格では劣るため守備力で遊撃手のレギュラーを取ろうと考え、同じ遊撃手の中村順司監督に指導を受け、夜も一人で練習を続けた。その練習はボールの動きを想定したもので、ボールに向かって走り、捕って投げるという動作を繰り返した。優勝した1987年の第69回全国高等学校野球選手権大会にはチーム唯一の2年生として出場。決勝戦では三塁手として先発出場し安打も放った。3年になると大学や社会人野球チームから勧誘を受け、その中でも早くから誘われていた同志社大学に進む道を選ぶ。

関西学生リーグでは1990年春季のリーグ戦で首位打者になる。エース杉浦正則、PL時代の先輩でもある片岡篤史を擁し、1990年秋季リーグで7年ぶりの優勝を飾る。同年の明治神宮野球大会でも決勝で立教大学を降し優勝。リーグ通算83試合出場、282打数88安打、打率.312、3本塁打。4年になるといくつかのプロ球団からドラフト指名の挨拶を受けるが、いずれも4位か5位での指名というものだった。同大の野口真一監督から「社会人野球で力をつけてからプロ入りしたほうが良い。一般社会での経験もプラスになる」とのアドバイスを受けプリンスホテルに入社。1年目に都市対抗野球に出場[2]。野球のオフシーズンにはホテル従業員としての仕事もこなした。

1994年のドラフト会議前にヤクルトスワローズの逆指名を表明[3]。ドラフトではヤクルトが2位指名で交渉権を獲得し契約金1億円、年俸1200万円(金額は推定)で入団した[4]。なお、入団時に背番号「5」と「6」が提示されたが、当時ヤクルトスワローズを舞台とした映画『ヒーローインタビュー』を見ていたため、同作品の主人公がつけていた「6」を選んだ[5]。なお逆指名した理由の一つに、正遊撃手の池山隆寛がFA移籍の可能性が高かったため、ヤクルト球団は即戦力の遊撃手がどうしても欲しいと言うことで逆指名したのだが、池山は残留したため半ば騙されたと日本プロ野球名球会のYouTubeチャンネルにて語った[6]

ヤクルト時代

三塁手の守備に就く宮本慎也

1995年は主に二塁手の守備固めとして出場。日本シリーズにも全試合途中出場を果たしている。

1996年には池山隆寛に代わって遊撃手として出場するようになり、シーズン後半には完全に固定されたが、打順ではヤクルトの野手陣の層の厚さから8番を務めることが多かった。

1997年にはゴールデングラブ賞を受賞する。脱税行為をしていたことが発覚し刑事告発を受ける。判決公判で懲役10カ月、執行猶予3年、罰金350万円の有罪判決が言い渡された[7]

1998年の開幕日から4週間の出場停止と制裁金100万円の処分を受けた[8]。球団は開幕前日に代役として日本ハムファイターズから城石憲之を獲得した(交換要員は捕手の野口寿浩)。出場停止処分が明けた後はレギュラーとして出場した。

1999年のキャンプで臨時コーチを務めた中西太からアドバイスを受けて努力した結果、2番としての出場も多くなる。

2000年に初めて打率3割を記録した。後2012年にプロ通算2000安打を達成した際に「通算300本ぐらいの時に、中西太さんと出会った。それがなければ、2000本になんて到底届かなかったと思います」と語っている[9]

2001年には2番打者として固定され67犠打でシーズン最多犠打の日本記録を打ち立てるなど、ヤクルトの日本一に貢献。ちなみに、シーズン67犠打は世界タイ記録でもある(1917年レイ・チャップマンメジャーリーグベースボールのシーズン最多犠打記録67を樹立)。1999年から2003年まで5年連続でゴールデングラブ賞を受賞した。

2004年は90試合の出場で打率.301、11本塁打、26打点を記録した。

2005年は1番打者に指名されるが、2番を打っていた青木宣親が台頭したため入れ替わりで2番に戻る。同年オフ、日本プロ野球選手会会長だった古田敦也選手兼任監督になったため、会長職を引き継がれた。

2006年は開幕から好調だったが、怪我での2度の離脱により73試合出場に留まった。

2007年、手薄な野手のリーダーとしても期待され、これまでの出塁・進塁役から、走者を返す役割を期待されることも多くなり5番や6番での出場が多くなった。その重圧にも負けず3割5本塁打の活躍。しかし、この年の巨人の優勝決定試合では巨人の一打サヨナラのチャンスにおいて清水隆行のゴロをとった後に一塁へ悪送球をしてしまい、優勝を決定させるサヨナラタイムリーエラーを犯してしまった。シーズンオフには再び日本代表のキャプテンに指名され、チーム首脳陣と選手をつなぐ重要な役割を果たした。星野仙一監督からは「成績に関係なく代表に選ぶつもりだった」と絶大な信頼を寄せられており、またナインからも監督の次に胴上げされている。契約更改では球団社長にスコアラーの増強や二軍室内練習場の早期設置などチーム強化を直訴した。

北京オリンピック代表チーム時代の宮本慎也
(2008年)

2008年はシーズン途中から三塁手にコンバートされる。シーズンオフの契約更改で39歳の2010年のシーズンまで年俸2億2000万円をベースに、各年最大8000万円の出来高で合意した(金額は推定)。また将来の監督候補のため来シーズンから一軍打撃コーチ兼内野手として、指導者としての第一歩を踏み出すことになった。ちなみに幅広く経験を積むために打撃や守備・走塁などの担当部門に分けず全てを指導していくこととなった[10]。コーチ就任により3年続けてきた日本プロ野球選手会会長職は同年オフ、新井貴浩に譲っている。

2009年は三塁手に固定されたが、他の選手の故障などで遊撃を守ることもあった。打順は主に6番だったが、青木宣親の不調時にはさまざまな打順をこなした。三塁手で守備率.993を記録し、三塁手として初めてゴールデングラブ賞を受賞し、遊撃手での受賞とあわせると、7度目の受賞となった。

2010年は前年とほぼ同じ起用となった。前年に続き、2年連続で2度目の三塁手部門でのゴールデングラブ賞を受賞したが、この年は球足の速い打球やイレギュラーバウンドの処理に苦しむ場面が多く見られ、1996年以来の二桁失策を記録。守備率も.959と前年から4分近く数字を落とした。

2011年は開幕から16試合で14安打を記録し、4月の月間最多安打(22本)、最高打率(.400)を記録し、初めて月間MVPを受賞。40歳5カ月での初受賞はリーグ最年長記録となった[11]。133試合に出場し、打率は3年ぶりの3割となる.302を記録。41歳になる年またはそれ以上の年齢での打率3割越えは史上4人目の記録となった[12]。守っても292回の守備機会で失策をわずか1つに抑え守備率.997を記録し、三塁手の守備率のプロ野球新記録を更新した[12]。また、自身初のベストナインと3年連続のゴールデングラブ賞を受賞(いずれも三塁手として)。40歳11カ月でのベストナイン受賞はセ・リーグ史上最年長[13]、ゴールデングラブ賞受賞はプロ野球史上最年長記録である[14]。37三振は前年の31に続き2年連続セ・リーグの規定打席到達者の中では最少であった。

2012年5月1日の横浜DeNAベイスターズ戦の3回裏に失策をしてしまい、三塁手の連続守備機会無失策のセ・リーグ記録が257で途切れた。5月4日の広島東洋カープ戦(投手福井優也)で、プロ通算2000安打を達成した。41歳5カ月での達成は、41歳4カ月で達成した落合博満の記録を抜く最年長記録であり[注 1][15]、大学卒・社会人を経ての2000安打は、かつてチームメイトであった古田敦也に次いで2人目である。また、2000安打到達時点での通算本塁打数59本も新井宏昌の86本を下回る最少記録となった[注 2]。さらに、1976試合目での2000安打達成は、ヤクルトに同期入団し宮本より6日早く達成した稲葉篤紀と同じ試合数である。9月26日に史上3人目となる通算400犠打を達成した。名球会入りした打者で通算400犠打を達成したのは宮本が初めてである[16]。10月22日、来シーズンより選手兼任コーチになることが発表された[17]

2013年は7月以降は代打での出場が多くなっていた。8月25日に今季限りで現役引退することが報道され[18]、翌8月26日に正式に今季限りでの現役引退を表明し、理由について「レギュラーで出られないのは引く時かなと感じた」と述べた[19]。10月4日の対阪神戦(神宮)が引退試合となり、2番遊撃手で先発出場。5打席無安打に終わっているが、11回裏にはあわやサヨナラ本塁打かという大飛球を放つなど延長12回まで出場した。試合後には引退セレモニーが行われている[20]。翌10月5日に登録抹消され[21]、残り試合をコーチとして帯同し[22]、シーズン最終戦の10月8日の対巨人戦(東京ドーム)の試合後に両チームの選手による胴上げが行われている[23]。11月26日に任意引退選手公示[24]

日本代表

2004年のアテネオリンピック野球日本代表では、予選より長嶋茂雄代表監督よりキャプテンの指名を受け、予選では普段守らない二塁手のポジションを危なげなくこなした。予選前のミーティングで「これは一生懸命やって負けたから仕方ないという戦いじゃない。絶対勝つんだ」とナインを鼓舞。地元開催に加え今回からメンバー全員がプロで構成され、アマチュア選手の夢を奪っていることにもなるので、負ければアマチュア球界にも顔が向けられないからと語っている。ちなみに予選突破を決めた後のシャンパンファイトでは「負けなくてよかったね」とも言っている。オリンピックでは遊撃手としての守備、走塁もさることながらチームトップの打率5割と大活躍し、長嶋ジャパンを牽引けんいんした。

2006年3月に開催された第1回ワールド・ベースボール・クラシック(WBC)日本代表に選出された。同大会では背番号が多村仁と重複のため10番をつけた。準決勝の韓国戦では代打として結果を残し、その後の守備では本職ではない三塁手として出場した(守備機会は無し)。決勝のキューバ戦ではその試合で2度失策をした川﨑宗則に代わり、9回に本職である遊撃手として出場した。ただし宮本への交代は前の攻撃の回で川崎がホームへ生還した際、右肘を痛めたためであり、失策が原因で交代したわけではない。

2008年の北京オリンピックでは、前回のアテネに続きキャプテンとしてチームを牽引し金メダル獲得を目指したが4位に終わり「キャプテンとして責任を感じる」と涙で敗戦の弁を語った。

引退後

2014年からは、日刊スポーツ野球評論家[25]や、NHK野球解説者に転身。1月21日には、プロ野球経験者の代表・堀内恒夫(元巨人投手・コーチ・一軍監督、参議院議員)の後任扱いで、日本野球機構の調査委員へ就任することが理事会で承認された[26]

2015年10月5日に発表された巨人の福田聡志の野球賭博関与問題についてNPB調査委員会として関与する。弁護士が中心の調査委員会にあって選手経験者として大きな役割を担う。

2016年学生野球資格回復研修を受講した上で、翌2017年2月7日に日本学生野球協会より学生野球資格回復の適性認定を受けたことにより、学生野球選手への指導が可能となる[27]

ヤクルトコーチ時代

コーチ時代
(2018年9月21日)

2017年10月6日、2018シーズンからの1軍ヘッドコーチ就任が発表される[28]。背番号は86

2019年は16連敗を喫するなどチームは最下位に低迷し、9月8日に監督の小川淳司とともにヘッドコーチを辞任することを表明した。

コーチ退任後

ヤクルト退団後の11月に一度失効していた学生野球資格を回復し、12月16日に、東都大学野球連盟所属の東洋大学を指導し、今後も定期的に指導に訪れる事を表明[29]

2020年から再びNHK野球解説者と日刊スポーツ評論家に復帰する。同年2月19日・20日、この年から始動したプロ野球独立球団・琉球ブルーオーシャンズの臨時コーチとして、春季キャンプで野手特別講義を行った[30][31]

2022年秋からは宮本の長男が所属する、東海大菅生高校野球部の臨時コーチに就任[32]

選手としての特徴

ネクストバッターズサークルの宮本慎也(2013年)

打撃

名球会入りしている打者で通算2000安打・400犠打を記録している唯一の選手である(2012年9月26日時点)[33]。際どい球をファールで粘り、甘く入った球をしとめるしぶとい打撃スタイル[34]。左投手との相性が良く、得意としていた投手に高橋尚成内海哲也を挙げている。その一方で、右のサイドスローアンダースロー投手との相性が悪く、苦手としていた投手に鈴木義広梅津智弘渡辺俊介牧田和久を挙げている。現役晩年にボールを引きつけ過ぎず、バットを軽く出して当てることで克服したという(上原浩治YouTubeチャンネルにて)[35]

守備

ゴールデングラブ賞を遊撃手部門で6回、三塁手部門で4回獲得。『週刊ベースボール』実施の「球界200人が選んだ!内野守備ランキング」において遊撃手1位に選出されている[36][37]。身のこなし、足の運び、球際の強さ、正確な送球と堅実なプレーで、平成を代表する守備の上手い名遊撃手に挙げられる[38]。難しい打球も難なく捌き、どんな体勢からも送球ミスをしないファインプレーに見えないファインプレーも多かった[34]

現役時代はチームの古田が守備シフトを多用していたが、引退後の川上憲伸の公式YouTubeチャンネルで川上と対談した際に「ピッチャーのことを考えると打ち取ってるのにかわいそう」という理由で守備シフトに対して否定派の立場を示した[39]

人物

プライベートではアダルトビデオ(AV)好き。2004年バラエティーの正月特番に出演をした際、「会ってみたい女優」というテーマに対し及川奈央朝吹ケイト星野ひかる等の複数のAV女優の名前を挙げたことがあり、同じくAV好きで知られる松井秀喜 が「あの人はすごい人。奥さんや娘さんがいるのに、テレビで堂々とあんなことが言えるなんて…。オレもまだまだだよ」と舌を巻いたほど[40]。2003年にはアテネ五輪の日本代表合宿で、大量のAVを持ち込み他の選手に配ったこともある[41]

フランク・ミュラー腕時計を好み、後輩の選手がプロ初安打を記録した際には同ブランドの時計を贈ることが恒例となっていた[41]。自身の2000安打の際には、高校時代の同級生の時計師と組み、後年、商標権侵害で訴訟にまで発展した「フランク三浦」というパロディ腕時計を立ち上げさせ、関係者に配ったこともある[41]

ヤクルトの球団マスコットつば九郎と仲が良く、つば九郎からは背番号6にちなみ現役時代から「6さま」と呼ばれている[42]。宮本が現役引退後に立ち上げた会社「ろくさま企画」の社名はこれが由来[43]。2012年オフにつば九郎がFA宣言した際には宮本から「自分で権利を行使したんですから勝手にどうぞ」と冷たくあしらわれ、結局つば九郎は残留宣言をした[44]

長男も野球選手で東京都の強豪・東海大菅生高校に所属し、投手としてプレーをしている[45]。入学翌年の2023年春の第95回記念選抜高等学校野球大会に出場している[46]。なお、同大会には、宮本のPL学園高校の先輩に当たる清原和博の次男も慶應義塾高校の選手として出場している[46]

詳細情報

年度別打撃成績

















































O
P
S
1995 ヤクルト 67 57 50 13 11 2 0 0 13 4 3 1 1 0 6 0 0 9 0 .220 .304 .260 .564
1996 68 270 238 27 65 8 2 1 80 13 6 0 8 1 19 1 4 39 3 .273 .336 .336 .672
1997 115 432 387 44 109 15 3 1 133 33 16 5 6 3 31 10 5 37 11 .282 .340 .344 .684
1998 114 402 368 28 95 10 1 1 110 25 5 3 6 1 24 4 3 51 4 .258 .308 .299 .607
1999 131 572 501 60 124 14 1 1 143 24 11 4 45 0 23 1 3 40 6 .248 .285 .285 .570
2000 136 536 476 39 143 24 4 3 184 55 13 5 19 5 31 10 5 49 7 .300 .346 .387 .733
2001 125 578 477 74 129 15 0 1 147 17 11 6 67 1 27 0 6 57 8 .270 .317 .308 .625
2002 114 519 464 53 135 21 1 5 173 25 6 2 40 0 9 0 4 64 5 .291 .310 .373 .683
2003 140 643 543 78 154 20 1 7 197 44 11 3 50 5 38 1 7 78 10 .284 .336 .363 .698
2004 90 390 346 52 104 12 1 11 151 26 6 1 18 0 18 0 8 69 6 .301 .349 .436 .786
2005 135 608 547 71 145 19 2 7 189 47 5 2 22 1 26 1 12 88 10 .265 .312 .346 .658
2006 73 290 270 29 82 11 1 2 101 34 3 1 5 1 8 0 6 29 10 .304 .337 .374 .711
2007 131 514 464 42 139 18 3 5 178 39 3 1 23 0 22 4 5 55 16 .300 .338 .384 .722
2008 116 482 422 47 130 11 0 3 150 32 3 3 27 2 26 0 5 52 10 .308 .354 .355 .709
2009 128 505 469 43 138 26 4 5 187 46 3 2 12 4 16 0 4 58 6 .294 .320 .399 .719
2010 129 517 468 42 129 22 2 4 167 39 2 2 18 1 27 2 3 31 10 .276 .319 .357 .675
2011 136 518 474 30 143 17 1 2 168 35 2 1 19 2 17 0 6 37 14 .302 .333 .354 .687
2012 110 394 356 19 95 5 0 3 109 23 1 0 16 1 16 2 5 38 9 .267 .307 .306 .613
2013 104 259 237 13 63 1 0 0 64 17 1 0 6 1 14 0 1 28 8 .266 .308 .270 .578
NPB:19年 2162 8486 7557 804 2133 271 27 62 2644 578 111 42 408 29 398 36 92 909 153 .282 .325 .350 .675
  • 各年度の太字はリーグ最高、赤太字はNPBにおける歴代最高

五輪での打撃成績

















































2004 日本 9 43 36 9 18 1 0 0 19 3 1 1 5 0 2 0 0 2 1 .500 .526 .528
2008 3 4 4 0 1 0 0 0 1 0 0 0 0 0 0 0 0 0 2 .250 .250 .250

WBCでの打撃成績

















































2006 日本 3 3 3 1 2 1 0 0 3 2 0 0 0 0 0 0 0 0 0 .667 .667 1.000

年度別守備成績



遊撃 二塁 三塁




































1995 ヤクルト 10 5 10 0 2 1.000 56 43 50 2 13 .979 -
1996 65 116 180 11 33 .964 5 10 11 0 5 1.000 -
1997 115 185 356 4 64 .993 - -
1998 114 197 357 6 69 .989 - -
1999 131 215 409 9 76 .986 - -
2000 136 240 378 4 76 .994 - -
2001 125 198 425 9 87 .986 - -
2002 114 162 342 7 53 .986 - -
2003 140 188 460 8 80 .988 - -
2004 90 120 278 3 52 .993 - -
2005 135 211 447 3 85 .995 - -
2006 72 83 208 8 28 .973 - -
2007 129 160 354 5 53 .990 - -
2008 58 72 174 2 30 .992 - 56 45 98 2 5 .986
2009 11 13 35 1 2 .980 2 0 4 0 0 1.000 118 68 197 2 16 .993
2010 4 6 12 0 2 1.000 1 2 4 0 1 1.000 125 87 197 12 17 .959
2011 - - 132 92 199 1 18 .997
2012 - - 99 57 178 5 15 .979
2013 3 2 3 0 0 1.000 - 52 32 95 3 9 .977
通算 1452 2173 4428 80 792 .988 64 55 69 2 19 .984 582 381 964 25 80 .982

表彰

栄典

記録

初記録
節目の記録
  • 200犠打:2003年4月16日、対阪神タイガース5回戦(明治神宮野球場)、6回裏に藤田太陽から投手前犠打 ※史上22人目
  • 1000試合出場:2003年9月28日、対横浜ベイスターズ28回戦(横浜スタジアム)、2番・遊撃手で先発出場 ※史上389人目
  • 250犠打:2004年6月17日、対阪神タイガース13回戦(大阪ドーム)、3回表に藪恵壹から投手前犠打 ※史上9人目
  • 1000本安打:2004年6月23日、対横浜ベイスターズ12回戦(明治神宮野球場)、8回裏にデニー友利から中前安打 ※史上221人目
  • 300犠打:2007年7月24日、対広島東洋カープ12回戦(明治神宮野球場)、5回裏に黒田博樹から投手前犠打 ※史上5人目
  • 1500本安打:2008年6月15日、対北海道日本ハムファイターズ4回戦(札幌ドーム)、5回表にライアン・グリンから中前安打 ※史上97人目
  • 1500試合出場:2008年6月28日、対阪神タイガース10回戦(秋田県立野球場)、2番・三塁手で先発出場 ※史上159人目
  • 350犠打:2010年4月9日、対阪神タイガース1回戦(阪神甲子園球場)、8回表にランディ・メッセンジャーから投手前犠打 ※史上3人目
  • 2000本安打:2012年5月4日、対広島東洋カープ6回戦(明治神宮野球場)、2回裏に福井優也から中前安打 ※史上40人目(41歳5カ月で当時の歴代最高齢)
  • 2000試合出場:2012年6月11日、対埼玉西武ライオンズ4回戦(明治神宮野球場)、6番・三塁手で先発出場 ※史上45人目
  • 400犠打:2012年9月26日、対阪神タイガース21回戦(明治神宮野球場)、3回裏にジェイソン・スタンリッジから投手前犠打 ※史上3人目(名球会入りした選手の達成は史上初)
その他の記録
  • 連続遊撃手守備機会無失策:463
    2004年5月22日の対広島東洋カープ8回戦(広島市民球場)から2005年5月17日の対東北楽天ゴールデンイーグルス1回戦(フルキャストスタジアム宮城)までに記録。当時の日本記録[注 4]
  • 連続三塁手守備機会無失策:257 ※日本記録
    2011年6月19日の対千葉ロッテマリーンズ4回戦(明治神宮野球場)から2012年5月1日の対横浜DeNAベイスターズ4回戦(横浜スタジアム)までに記録。
  • シーズン67犠打(2001年)※世界タイ記録
  • 三塁手最高守備率.997(2011年)
  • オールスターゲーム出場:8回(2002年、2003年、2007年 - 2009年、2011年 - 2013年)

背番号

代表歴

関連情報

著書

  • 『歩-私の生き方・考え方-』小学館、2013年12月。ISBN 978-4093965255。https://www.shogakukan.co.jp/books/09396525 
  • 『意識力』PHP研究所、2014年3月。ISBN 978-4569816456。https://www.php.co.jp/books/detail.php?isbn=978-4-569-81645-6 
  • 『洞察力 弱者が強者に勝つ70の極意』ダイヤモンド社、2017年10月。ISBN 978-4478103302。https://www.diamond.co.jp/book/9784478103302.html 

共著

参考書籍

  • PL学園OBはなぜプロ野球で成功するのか?』(橋本清(著)、ぴあ、2009/3、PL学園の1年先輩である橋本が第2章で宮本を取材、ISBN 978-4835617282)
  • 柏英樹『プロ野球選手になるには』ぺりかん社、2009年

脚注

[脚注の使い方]

注釈

  1. ^ この記録は翌2013年に2000安打を達成した谷繁元信(達成時42歳4カ月)が更新した。
  2. ^ この記録は2017年に2000安打を達成した荒木雅博(達成時通算本塁打数33本)が更新した。
  3. ^ 宮本と同じく遊撃手部門と三塁手部門で受賞。プリンスホテルの先輩でもある。
  4. ^ 後に井端弘和がこの記録を更新し、513連続遊撃手守備機会無失策が2011年シーズン終了までの日本記録となっている。

出典

  1. ^ “歴代最高記録”. 日本野球機構. 2020年11月15日閲覧。
  2. ^ 『スポニチプロ野球手帳』、スポーツニッポン新聞社、1995年、[要ページ番号] 
  3. ^ 朝日新聞、1994年11月3日付朝刊 (29面)
  4. ^ 朝日新聞、1994年11月27日付朝刊 (22面)
  5. ^ 週刊ベースボール』2月25日号、ベースボール・マガジン社、2013年、28頁。 
  6. ^ (日本語) 【宮本慎也が語る】野村克也監督率いるヤクルト黄金期の秘密, https://www.youtube.com/watch?v=fSz8jXLuBP4 2022年5月21日閲覧。 
  7. ^ 朝日新聞、1998年1月23日付夕刊 (15面)
  8. ^ 朝日新聞、1998年2月10日付朝刊 (31面)
  9. ^ 柳川悠二 (2012年5月5日). “「守備の人」が2000本安打。宮本慎也を支えた打撃理論と母の教え”. web Sportiva. 集英社. 2020年11月15日閲覧。
  10. ^ 「ヤクルト・宮本 コーチ兼任で2年契約」『MSN産経ニュース』、2008年11月25日。オリジナルの2009年2月14日時点におけるアーカイブ。
  11. ^ “2011年4月度「日本生命月間MVP賞」受賞選手 (セントラル・リーグ)”. 日本野球機構 (2011年5月10日). 2020年11月15日閲覧。
  12. ^ a b 「宮本がシーズン最高守備率のプロ野球新記録」『産経新聞』、2011年10月25日。オリジナルの2011年10月30日時点におけるアーカイブ。
  13. ^ 宮本、セの最年長受賞=ソフトバンクから4人-プロ野球ベストナイン時事ドットコム 2011年11月28日
  14. ^ 宮本が最年長受賞=ソフトバンクは4人-ゴールデングラブ賞[リンク切れ] 時事ドットコム 2011年11月24日
  15. ^ “【野球】2000安打ラッシュとなるか。大記録まで残り100本を切った5選手たち”. デイリースポーツ online (2017年5月9日). 2022年8月24日閲覧。
  16. ^ 「ここが宮本の凄さ!2000安打&400犠打なら日本初」『スポーツニッポン』、2012年9月4日。2020年11月15日閲覧。
  17. ^ 「ヤクルト 来季スタッフ発表 宮本はコーチ兼任に」『スポーツニッポン』、2012年10月22日。2012年11月20日閲覧。
  18. ^ 朝日新聞2013年8月26日運動面
  19. ^ 「宮本、今季限りでの現役引退を正式表明「引く時かなと感じた」」『スポーツニッポン』、2013年8月26日。2020年11月15日閲覧。
  20. ^ 宮本慎也ラストG「父ちゃん頑張れた」 - ウェイバックマシン(2013年10月5日アーカイブ分)
  21. ^ 出場選手登録・登録抹消公示 - ウェイバックマシン(2013年10月23日アーカイブ分)
  22. ^ 「ヤクルト宮本「幸せでした」 引退試合から一夜、ファンに感謝」『スポーツニッポン』、2013年10月5日。2020年11月15日閲覧。
  23. ^ 巨人・村田がサヨナラ打!試合後は両軍ナインで宮本胴上げ - ウェイバックマシン(2013年10月11日アーカイブ分)
  24. ^ “2013年度 任意引退選手”. 日本野球機構. 2013年11月26日閲覧。
  25. ^ 「宮本氏が日刊スポーツ評論家「素晴らしさを」」『日刊スポーツ』、2013年12月6日。2020年11月15日閲覧。
  26. ^ 「前ヤクルト宮本氏 NPB調査委員会新メンバーに」『スポーツニッポン』、2014年1月21日。2020年11月15日閲覧。
  27. ^ 「元ヤクルト宮本慎也氏ら132人が学生野球資格回復」『日刊スポーツ』、2017年2月8日。2017年2月8日閲覧。
  28. ^ “コーチ契約について”. 東京ヤクルトスワローズ (2017年10月6日). 2020年11月15日閲覧。
  29. ^ “宮本慎也氏が東洋大でコーチ ヤクルト退団後に資格再回復で実現”. スポニチアネックス. (2019年12月16日). https://www.sponichi.co.jp/baseball/news/2019/12/16/kiji/20191216s00001089326000c.html 2023年1月29日閲覧。 
  30. ^ 琉球ブルーオーシャンズ [@RYUKYUBLUEOCEAN] (2020年2月19日). "本日、野手特別講義に元ヤクルトの宮本慎也さんが来てくれました。". X(旧Twitter)より2020年2月21日閲覧
  31. ^ 琉球ブルーオーシャンズ [@RYUKYUBLUEOCEAN] (2020年2月20日). "本日も、昨日に続き、宮本慎也さんが来てくださいます。". X(旧Twitter)より2020年2月21日閲覧
  32. ^ “東海大菅生が恒例合宿スタート「体力と筋力のアップ」掲げ、パワーと技術の相乗効果狙う”. 日刊スポーツ. (2022年12月21日). https://www.nikkansports.com/baseball/highschool/news/202212210001054.html 2023年1月30日閲覧。 
  33. ^ 「宮本慎也が名球会打者初の400犠打」『デイリースポーツ』、2012年9月26日。2018年11月7日閲覧。オリジナルの2012年10月28日時点におけるアーカイブ。
  34. ^ a b “現役最高のワザ師は誰だ!?”. 週刊ベースボールONLINE (2013年7月15日). 2022年2月6日閲覧。
  35. ^ (日本語) 【意外すぎる名前連発】2000安打の宮本慎也さんが嫌いだった投手【イラッとした投手も】【野村監督の打撃理論】【次回からは川上憲伸コラボ再開】【宮本キャプテンSP 4/4】【巨人】, https://www.youtube.com/watch?v=WGQSimcFxfI 2021年9月28日閲覧。 0:22から2:52辺り
  36. ^ 「球界200人が選ぶ史上最強の内野守備職人」『週刊ベースボールONLINE』2014年7月13日、2016年2月25日閲覧 
  37. ^ 『週刊ベースボール』7月21日号、2014年、12頁。 
  38. ^ “宮本慎也、石井琢朗、小坂誠、井端弘和…「平成の守備No.1ショート」は誰?”. 週刊ベースボールONLINE (2021年7月26日). 2021年12月19日閲覧。
  39. ^ 【激論】宮本慎也が日本球界の守備シフト撤廃を要求!「大谷翔平がやってんのになんでやらないの?」 川上憲伸 カットボールチャンネル 2022/03/14に公開済み (2022年9月10日閲覧)
  40. ^ ハダカの松井秀喜(5) - 東京スポーツ・2013年9月9日
  41. ^ a b c “プロ野球「今季で引退」大物選手サヨナラ場外スクープ!(4) 宮本慎也”. アサ芸プラス. 徳間書店 (2013年10月17日). 2020年11月15日閲覧。
  42. ^ “つば九郎、キャンプで大失態「さがしました」…挨拶に行かなかった先輩とは?”. CYCLE (2017年2月14日). 2021年12月24日閲覧。
  43. ^ “CS優勝ヤクルトスワローズ。「つば九郎」と6さまの忘れられない話。二人の出会い、そしてお酒のお話”. YouTube 野球いっかん! (2021年11月15日). 2021年12月24日閲覧。
  44. ^ ““1万円プレーヤー”達成も…宮本慎也は「勝手にどうぞ」つば九郎FAメモ”. 日刊スポーツ (2021年12月12日). 2021年12月24日閲覧。
  45. ^ “元ヤクルトの宮本慎也氏を父に持つ東海大菅生・宮本恭佑が城西大城西戦で2回無失点 185センチの1年生右腕”. サンスポ. (2022年6月18日). https://www.sanspo.com/article/20220618-MYH4UAHDXFIJHI43NC3DS3FEOQ/ 2023年1月30日閲覧。 
  46. ^ a b “東海大菅生が選抜出場 元ヤクルト・宮本慎也氏の長男・恭佑は慶応・清原に〝雪辱〟だ!”. サンスポ. (2023年1月27日). https://www.sanspo.com/article/20230127-Q6IWQQ24BFKUPKCE64H62EELDE/ 2023年1月30日閲覧。 
  47. ^ “2013年度 表彰選手(セントラル・リーグ)”. 日本野球機構. 2020年11月15日閲覧。

関連項目

外部リンク

ウィキメディア・コモンズには、宮本慎也に関連するカテゴリがあります。
  • 個人年度別成績 宮本慎也 - NPB.jp 日本野球機構
  • 選手の各国通算成績 Baseball-Reference (Japan)、The Baseball Cube、MLB
  • 宮本慎也オフィシャルブログ「球道即人道」 - Ameba Blog(2012年3月30日から)
  • 解体慎書【宮本慎也公式YouTubeチャンネル】 - YouTubeチャンネル
  • 解体慎書【宮本慎也公式YouTubeチャンネル】 (@shinya___m) - X(旧Twitter)
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業績
投手
打者
初代 - 10代
1990年代
2000年代
2010年代
2020年代
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1950年代
1960年代
1970年代
1980年代
1990年代
2000年代
2010年代
2020年代
1970年代
1980年代
1990年代
2000年代
2010年代
2020年代
1972年から1985年まではダイヤモンドグラブ賞
1970年代
1980年代
1990年代
2000年代
2010年代
2020年代
1972年から1985年まではダイヤモンドグラブ賞
 
日本の旗 野球日本代表
日本の旗 野球日本代表 - 2003年アジア野球選手権大会 1 1位
監督
コーチ
投手
捕手
内野手
外野手
日本の旗 野球日本代表 - 2004 アテネオリンピック 33位 銅メダル
監督
コーチ
  • 31 高木豊(守備・走塁)
  • 32 大野豊(投手)
投手
捕手
内野手
外野手
日本の旗 野球日本代表 - 2006 ワールド・ベースボール・クラシック 1 1位 優勝
監督
コーチ
投手
捕手
内野手
外野手
日本の旗 野球日本代表 - 2007年アジア野球選手権大会 1 1位
監督
コーチ
投手
捕手
内野手
外野手
日本の旗 野球日本代表 - 2008 北京オリンピック
監督
コーチ
投手
捕手
内野手
外野手
ヤクルトスワローズ - 1994年ドラフト指名選手
指名選手
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