中畑清

中畑 清
DeNA監督時代
(2014年9月23日、横浜スタジアムにて)
基本情報
国籍 日本の旗 日本
出身地 福島県西白河郡矢吹町
生年月日 (1954-01-06) 1954年1月6日(70歳)
身長
体重
183 cm
80 kg
選手情報
投球・打席 右投右打
ポジション 一塁手三塁手
プロ入り 1975年 ドラフト3位
初出場 1977年7月17日
最終出場 1989年10月29日(日本シリーズ第7戦
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)
選手歴
監督・コーチ歴
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中畑 清(なかはた きよし、1954年昭和29年〉1月6日 - )は、福島県西白河郡矢吹町出身の元プロ野球選手内野手、右投右打)・監督コーチ愛称絶好調男大将燃える男ヤッターマン

1980年代読売ジャイアンツの中心打者として活躍し、労働組合日本プロ野球選手会初代会長を務めた。

引退後は巨人の一軍打撃コーチを務めた後、2004年にアテネオリンピック野球日本代表監督を務め、銅メダルに導いた。その後2012年より横浜DeNAベイスターズ初代監督(大洋ホエールズからの通算では第29代)に就任し、2015年シーズン終了まで在任した。

2016年から野球解説者野球評論家タレントに復帰している。

経歴

プロ入り前

安積商業高校で三塁手、遊撃手、捕手を務める。1971年春季東北大会県予選準決勝に進むが、福島商に延長11回敗退。

卒業後は駒澤大学に進学。東都大学野球リーグでは5度の優勝を経験した。1973年秋季リーグでは栗橋茂とともに打線の中心となり優勝、最高殊勲選手に選出された。直後の第4回明治神宮野球大会では、決勝で同志社大田尾安志を打ち崩し、初優勝を飾る。その後は山本泰之水谷啓昭森繁和の強力投手陣を擁し、1974年春季リーグでも優勝に貢献。1975年は春秋季連続優勝、全日本大学野球選手権大会でも、決勝で齊藤明雄を擁する大阪商大を破り優勝している。同年の第6回明治神宮野球大会は決勝で明大の丸山清光(朝日新聞)に抑えられ準優勝。また1973年1975年日米大学野球選手権日本代表に選出されている。直射日光を避けるための偏光サングラスと一本足打法で注目を集めた。リーグ通算82試合出場、300打数92安打、打率.307、10本塁打、51打点。ベストナイン4度受賞。

駒澤三羽ガラス(駒大トリオ)」と呼ばれた平田薫、二宮至と共に、1975年のプロ野球ドラフト会議の目玉としてマスコミに注目され、巨人からの1位指名が有力視されており、駒澤大学の合宿所に報道陣が殺到したが、銚子商業篠塚利夫が1位指名された。報道陣が帰って行くのを見て中畑は別室で将棋をしていたが、3位指名されたと聞き慌てて戻った。「高卒の人間(篠塚)が先に指名された」とがっかりし、内定していた北海道拓殖銀行への就職に傾きかけたが、憧れていた長嶋茂雄(当時の巨人監督)の存在や父親の助言、ドラフト1位と同じ条件を提示されたことなどが後押しとなり、内定を辞退してプロ入りを決意した。「(プロから指名されなかった)平田と二宮も一緒なら入団する」と球団に申し入れ、巨人もこれを受け入れたため、2人はドラフト外で巨人に入団している。

現役時代

入団当時の巨人は、王貞治張本勲土井正三高田繁らが現役で活躍しており、選手層が厚かったため、入団後3年間は一軍での出番に恵まれなかった。守備固め要員とはいえ2年目に一軍100試合出場を果たした二宮を横目に二軍中心の下積み生活が続く。

1978年に開催された日米野球第1戦のシンシナティ・レッズ対巨人戦で、高田に代わって途中出場しマリオ・ソトから2点本塁打を放った。レッズ監督のスパーキー・アンダーソンは、長嶋に「あの三塁手(中畑)はハッスルしてファイティング・スピリットに溢れているのがいい。バッティングは荒削りだけど、ぜひ使うべきだ」と進言した。

1979年より一軍に定着した。同年は三塁手の高田が怪我で離脱した際に先発で起用され、高田の復帰後もレギュラーを守った。規定打席には届かなかったが、打率.294を記録。新人王有資格者だったが、シーズン終盤に骨折したこともあり、新人王は逃した(中日藤沢公也が受賞)。同年オフに「地獄の伊東キャンプ」に参加した。

1980年は初めて規定打席(23位、打率.268)に到達、22本塁打を放つ。同年秋には長嶋が監督を辞任し、王も現役引退した。入れ替わるように、大学野球のスター選手で中畑と同じ三塁手の原辰徳がドラフト1位で入団したが、新監督の藤田元司ら首脳陣は、原を二塁手にコンバートさせることで対応した。

1981年シーズンは、5月4日対阪神戦(後楽園)4回裏に一塁走者であった中畑が併殺崩しのスライディングを掛けたところ、二塁手岡田彰布と衝突して左肩鎖関節靭帯を損傷してしまい、3週間の戦線離脱を余儀なくされた[1]。中畑の離脱中に原が三塁手にコンバートされ、二塁手には元々守備には定評のあった篠塚が入り、打率.357を記録した。王の後任の一塁手には、大洋から移籍の松原誠山本功児が入ったが打撃不振が続き、5月27日対大洋戦で中畑が戦線復帰して一塁手に収まる。結果的に中畑の故障離脱で巨人内野陣が再編成される形になった[2]。同年は規定打席に到達したシーズンでは自己最高の打率.322(リーグ7位)、16本塁打、66打点の好成績を挙げ、リーグ優勝の原動力となった。日本ハムとの日本シリーズでは、打線の中軸として24打数6安打2打点1本塁打を記録、1973年のV9以来の日本一奪回に貢献する。

1983年、打撃コーチの末次利光が、最終戦で3割前後の選手の打率を1打席ごとに電卓で計算し、3割に乗ったところで交代させたため、打率は3割ジャストであった。この点を指摘された中畑は「3割だけは契約更改の席での印象が変わるので勘弁してほしい。その代わり、もし自分がタイトル争いをしたら絶対休まない」と返答した(実際に中畑は駒澤大学時代に最終戦まで出場して首位打者を逃した経験があった。プロでは1987年に篠塚、正田耕三落合博満らと一時首位打者争いをしたが、結局タイトルは獲得できなかった)[3]日本シリーズでは西武ライオンズに3勝4敗と敗れたもの、第3戦で森繁和からサヨナラ安打、第6戦で杉本正から一時は逆転となる適時三塁打を放ち3打点を記録し、優秀選手賞に選ばれた。

監督が藤田から王に交代した1984年は、オールスターゲームで第2戦、第3戦にまたがる2打席連続本塁打を放った。公式戦では、不振の原に代わりシーズン途中に4番を任され、自己最多の31本塁打を記録した。

1985年、王監督を「ワン公」と呼び批判した取材オフレコテープの存在が問題となる[注 1]。中畑は電話で謝罪し、王から「何も聞かなかったことにする」と許されている。王政権下では長嶋第一次政権に若手だった選手が主力を担っており、そのことによる派閥争いが度々雑誌、新聞媒体で記事にされた[4]。また11月5日には日本プロ野球選手会労働組合としての認可を受けたことに伴い労組としての初代会長へ就任した[注 2]

1987年は途中怪我で戦線離脱するが、首位打者を狙える高打率を残していたため、復帰後規定打席に達するまでは打席数を稼ぐために1番打者として起用された。結果、最後の5試合にノーヒットで打率を下げ、首位打者は逃すがリーグ6位の打率.321を残す。一方本塁打は初めて一桁に終わり、打点も一軍定着後としてはワーストに終わる。しかし西武との日本シリーズでは第1戦で東尾修から2点本塁打を放ち気を吐く。1988年も打率.295(7位)と好調を維持した。

1989年、監督復帰した藤田により三塁手への再コンバート(原は左翼手へ)が試みられたが、シーズン序盤に甲子園での試合中、牽制球で一塁に帰塁した際に指を痛め、長期戦線を離脱した。その間に三塁手は一塁手から岡崎郁が、また一塁手も外野手から駒田徳広が定着したこともあり、定位置を失った中畑はベンチを温めており、シーズン終盤に引退を表明した。リーグ優勝を決めた大洋戦(横浜スタジアム)では、二塁打を放った際に球場に起こったウェーブについて、「自分が日本の球場で最初に起こしたもの」と発言している(実際には、この前日の試合で既にウェーブが起こっており、この試合でも8回表で中畑の2打者前の中尾孝義の打席でウェーブが起こっている)。チームのシーズン最終戦となった10月13日のヤクルト戦で途中出場し、宮本賢治から本塁打を打ったほか、現役最後の試合となった近鉄との日本シリーズ第7戦藤井寺球場)では、吉井理人から本塁打(この後、もう1打席回ったが、最終打席は三塁フライに終わった)を放ち、有終の美を飾った[5]

現役時代サヨナラ本塁打を3本放っているが、すべて中日戦である(1982年4月22日 三沢淳から、1983年5月8日 牛島和彦から、1986年8月7日 杉本正から)。

自身が現役時代のベストゲームは巨人通算6000勝となった、1982年4月22日の中日戦(平和台)での三沢淳から打ったサヨナラ3点本塁打を挙げている[6]

現役引退後

引退後は日本テレビラジオ日本野球解説者、スポーツニッポン野球評論家を経て、1992年10月31日に翌シーズンより巨人の監督に復帰した長嶋の下で一軍打撃コーチに就任することが発表された。

しかし、前年好調だった打撃陣が一転して1993年はチーム打率が12球団最下位に終わり、巨人史上初めてチーム得点も最下位[7]、駒田の横浜へのFA移籍にあたって中畑との確執がその原因としてマスコミから挙げられていた[8]

一方、大物ルーキーとして入団した松井秀喜を、東京ドームから松井の住むよみうりランド隣接の若手選手寮の道中に自宅が位置したこともあり、試合後自宅に立ち寄らせて夫人の手料理を食べさせ[9]、連日のように自宅の打撃練習室で指導した[10]。2020年7月20日号の週刊ベースボールのインタビューでは「若い時、特に結果が出ている時、自分のスタイルを貫き通したい。自分の打撃を崩してまで、違う打ち方にする選手なんて誰もいません。松井もそれと同じでした。自分に分かっていたので、余計なことは言いませんでした」[11]と述べている。中畑は松井から信頼を得ており、後年中畑がDeNAの監督になった際、松井はDeNAの1日打撃コーチを務めた[12]

1994年は一塁ベースコーチとして、ムードメーカーの役割に徹した。同年は中畑と同学年の落合博満が移籍加入したが、中畑は落合について「しっかり4番の仕事をしました。それはそれまでの巨人の4番とは違いました。長嶋さんを男にするという落合の言葉もありますが、一方巨人軍からの考え、長嶋さんの考えもある。1994年当時の巨人はしっかりとした4番がいなかった。落合は4番として、1シーズン目で優勝して、日本一になった。当時の打撃コーチとして本当に感謝しています」[13]と述べている。同年にチームはリーグ優勝・日本一になったが、チーム得点はリーグ4位に終わり、シーズン終了後の11月8日に退団し、再び日本テレビ、ラジオ日本、スポーツニッポン野球解説者・評論家として活動。日本テレビでは、スポーツニュースのキャスターも務めた。

2004年アテネオリンピック野球日本代表ヘッド兼打撃コーチを務めたが、監督の長嶋茂雄が病床に伏してからは監督代行としてチームの指揮を執った。大会では、国際オリンピック委員会の規定により長嶋の監督登録が認められなかったため、監督経験がなかった中畑を監督として登録したが[注 3]、準決勝でオーストラリアに敗退し、銅メダル止まりに終わった。対戦するまでオーストラリアを「やりやすい相手」と見ていたが、オーストラリア代表捕手で元中日のデーブ・ニルソン(ディンゴ)に、日本での経験を生かして研究されつくしていたことを、敗戦後に知ったと後のインタビューで明かしている[14]。さらに、中畑は五輪現地で対戦相手国の代表チームの試合の視察には行かず、観光に行ったり他の五輪競技の試合を観戦していたことが後に報じられている[15]

国政選挙への挑戦

2010年5月9日には、たちあがれ日本が同年7月に執行の第22回参議院議員通常選挙の立候補者として擁立する方針であると報じられ[16]、5月11日にたちあがれ日本の代表である平沼赳夫、共同代表の与謝野馨が同席する中、正式に出馬表明記者会見を行った[17]。7月11日の投開票の結果、111,597票を獲得し同党内で2位になるも同党が比例区で1議席(片山虎之助)しか獲得できなかったため落選した。

翌年の8月末に離党したが、後に「結果的に受からなくてよかった」と発言している。その真意を問われ「(議員になっていれば)震災の後に自由に支援に故郷を訪れることができなかっただろうから」と述べている[18]

DeNA監督時代

中畑清(2012年3月10日、西武ドームにて)

2011年12月9日、横浜ベイスターズから名称を改めた横浜DeNAベイスターズの初代監督に就任し、同日記者会見を行った[19]。57歳(開幕時は58歳)にして自身初の監督就任となり、過去に一軍監督経験のない完全な「新人監督」としては1997年オフに前身である横浜ベイスターズの監督へ就任した権藤博(当時59歳)に次いで当時NPB史上2番目の年長記録であった[注 4]

就任のきっかけを作ったのは12月5日にDeNAのゼネラルマネージャーに就任したばかりだった巨人時代の先輩・高田繁で、工藤公康との監督就任打診の交渉が難航していた頃、高田はふと中畑のことが頭に浮かび、自宅の柿の木になっていた甘柿を10個切るとママチャリのカゴに入れ、普段着のジーパン姿のまま自転車で中畑家を訪問。「工藤の条件が厳しくて、もしそれが破談になったら監督をやってみる気はあるか? でも、保険なんだけどな」と中畑に柿を渡しながら告げると、翌日には電話で「監督をお願いするから」と決定事項であることを知らされ、就任会見を開くことが決まった。中畑は後に「今考えれば、あの柿10個が契約金だった」と語っており[20]、加えて「高田さんはママチャリで来たけど、監督就任の依頼ともなると近所だとしてもハイヤーで来るよね (笑)」と述べている[21]

就任会見の中での自身の発言を元にした「熱いぜ! 横浜DeNA」が正式にチームのシーズンスローガンとなったが、監督初年度の2012年は開幕から低迷が続き、この年優勝した巨人には4勝17敗3分けと大きく負け越した上に、巨人戦のビジターゲームでは1勝もできずに終わるなど前年度よりさらに勝率を下げ、最下位に終わった。12月5日には夫人を子宮頸癌で亡くした[22]

2013年は中日からエンジェルベルト・ソトホルヘ・ソーサトニ・ブランコの外国人3人を獲得するなど、大型補強を敢行してシーズンに臨んだ。ブランコはここ2年苦しんだ故障から脱却して本塁打を量産し、ソーサもセットアッパーとして奮闘。山口俊が不調になるとソーサを抑えに配置転換した。だがまたしても巨人戦で大きく負け越すなど低調な戦いが続き、9月24日の阪神戦に敗れチームのクライマックスシリーズ進出の可能性が消滅した。試合後に監督辞任を示唆するコメントを出したが[23]、10月3日に翌年の続投が決定。最終的にはヤクルトが最下位となり、6年ぶりに最下位を脱出し5位でシーズンを終えた。またこの年は中日・阪神・ヤクルトの3球団に勝ち越している。

2014年は打線強化としてオリックスからアーロム・バルディリスを獲得するなど補強したが、チームは前年同様の低調な戦いが目立った上、ブランコやソーサの故障に加え13試合に出場時点で10打点と活躍していた中村紀洋を「チーム方針に従わない言動があった」として懲罰降格させる[注 5]など、主力選手の離脱が響いた。9月2日の阪神戦での退場処分後、これまでの審判員への度重なる暴力行為が問題視され労組審判支部から球団へ抗議文が送られたことで、山下大輔GM補佐から説明を受けた[26]。結局2年連続の5位に終わったが、この年セ・リーグ3連覇を達成した巨人には2005年以来9年ぶりに勝ち越した[注 6]

2015年も監督を続投。球団史上同一監督が連続して4シーズン以上指揮を執るのは1968 - 1972年の別当薫以来43年ぶりとなり、1978年の横浜移転後では監督15人目(大矢明彦が2期務めたため16代目)にして初となった(球団名がベイスターズになってからでも初)。この年は序盤から好調で、交流戦を3勝14敗1分け[注 7]と大きく負け越すも1998年以来17年ぶりに前半戦を首位で折り返した。しかし後半戦で大失速を起こし、3年ぶりにセ・リーグ最下位へ転落。前半戦を首位で折り返しながら最終順位で最下位となるのは前後期制時代のパ・リーグを除けば2リーグ分裂後プロ野球史上初の屈辱であった。

中畑はこの成績不振の責任を取り監督を辞任する意向を固め、10月2日に南場智子オーナーに対し正式に辞意を伝えた。中畑は首位ターンを決めた前半戦終了時に球団から翌年の続投要請を受け回答を保留しており、9月30日に球団社長の池田純とGMの高田を交えた会談のなかで翌年のコーチ人事(大久保博元の招聘)を巡って意見が折り合わず、「俺が辞めるしかない。自分だけが残るわけにはいかない」と辞任を決意したという[27][28]

監督在任中は4年連続Bクラス、通算負け越し80と成績としては振るわなかったものの、筒香嘉智梶谷隆幸山﨑康晃といった若手を積極的に起用しチームの主力選手へ育てるなど、いわゆる「暗黒時代」から抜け出すDeNAの礎を作った[注 8]

DeNA監督退任後

2016年以降は、日本テレビ野球解説者・スポーツニッポン野球評論家・タレントに復帰しており、TBSテレビテレビ東京の野球中継にもゲスト解説者として出演している。2023年5月17日にはtvkにもゲスト解説者として出演。2016年12月4日、巨人OB会副会長に就任した[29]。2019年からラジオ日本野球解説者に復帰。同年12月7日、巨人OB会会長に就任[30]世界少年野球推進財団で評議員も務める[31]

選手としての特徴

1979年、監督の長嶋茂雄から「調子はどうだ?」と尋ねられた中畑は「まあまあです」と返事をしたところ、それを聞いていた一軍守備走塁コーチの土井正三から「まあまあなんて言う奴を監督が起用するか? 絶好調と答えろ!」と叱られた。それ以来、中畑は何を聞かれても「絶好調!」と答えるようになり、「絶好調」「絶好調男」が中畑の代名詞となった。

一塁手として1982年から1988年まで7年連続でゴールデングラブ賞を受賞した。ただ、中畑を三塁手から一塁手へコンバートした藤田元司は「中畑はサード向き、原はファースト向きの性格でありながら、原をサードに、中畑をファーストにしたのは最大の失敗だった」と後年語っている[32]

監督として

DeNA監督就任当時、開幕前から「守れない選手は使わない」をチーム方針として、守備を重視したチーム作りを徹底して行うことを表明していた[33]。また機動力を使うことも明言し、盗塁やエンドラン、スクイズなどを積極的に行っている。この機動力を使った野球は就任1年目の頃は「せこいぜ野球」と呼称されていた[34]。就任2年目あたりから送りバントも多用するようになり、2014年にはリーグ最多犠打を記録している。またオーダーを固定することは少なく、好不調で選手や打順を入れ替えることが多かった。

投手陣は基本的に投手コーチにほぼ一任しているが、小刻みな継投を好みシーズンののべ登板数の日本記録を作った前任監督の尾花高夫とは異なり、先発投手はイニングを引っ張る傾向が強い。特に三浦大輔にはかなりの信頼を置いており、2012年はリーグ最多の6完投をさせている[注 9]

試合後の監督インタビューは、勝った試合はもちろん、敗れた試合でも全試合で行った。またチーム勝利時のヒーローインタビューは、チームメンバー全員がベンチで聞く方針を浸透させた。野球は集団スポーツであることから「全員の気持ちが一つにならないとそのチームは機能しない」というポリシーを持っており、成績が振るわない選手や見込みがない選手に対しては見限ったり、チームの和を乱す行為を嫌っているなどのシビアな側面も持っている。その方針は巨人一軍打撃コーチ時代から貫いており、打撃指導や采配における駒田との確執にも現れていたが、DeNA監督時代は特に顕著であった。

前述の通りDeNA監督時代は自身の元気さをマスコミの前でアピールする一方、選手の怠慢行動や采配批判とも取れる言動に対して厳しく対処した。特に監督2年目以降は顕著だった。

  • 2013年4月9日の広島東洋カープ戦(横浜)で、3回表二死満塁の場面で大竹寛が放ったゴロを処理した遊撃手石川雄洋は、封殺を狙って二塁へ送球した。しかし、二塁手の梶谷隆幸はベースカバーに入らず一塁方向へ走っていたため、石川は慌てて一塁への送球に切り替えたが、内野安打になったばかりか、2人の走者の本塁生還を許した。このプレーが原因で梶谷を二軍へ降格させた[35][36]
  • 2013年序盤、主将の石川は打撃不振もあったが、円陣の輪に入らなかったり、首脳陣との話し合いでの態度の悪さが目立ったことで二軍に降格させた[37]
  • 2014年、宮崎遠征のため羽田空港から出発する際、抑え投手を務めていたホルヘ・ソーサが足を引きずりながら現れたことで激怒し、ソーサの帯同を認めず一軍登録を抹消した[38]
  • 中村紀洋を2度、懲罰降格させた。1度目は2012年8月15日の阪神タイガース戦で、中村の打席で内村賢介が盗塁したが、中村はこの盗塁について内村に叱責したことが、内村の盗塁をグリーンライトとしている首脳陣批判とみなし、中村の登録を抹消した[39]。2度目は2014年5月6日の巨人戦で、中村がコーチに「場面によっては走者を動かさず打席に集中させてほしい」と相談したことを采配批判とみなし、登録を抹消した[24][25]。中畑は中村を登録抹消する際「チーム方針に従わない言動があった」と表現し、抹消以降中村を一軍に昇格させず、中村は戦力外通告を受けた。球界での貢献度が高い中村に対し、DeNA球団は引退試合・引退セレモニーを提案したが、現役続行を希望したためこれを固辞した。
  • 筒香嘉智山﨑康晃など、育てると決めた選手は結果が出ずとも使い続けた[40]岡田彰布は「戦える、勝てるチームの土台を作ったのは高く評価するべきだろう」、江本孟紀は「筒香と心中すると言って育てたのは評価する。弱点の投手陣に目を向けても井納と心中するとでも言っておけば良かったのに」と述べている[41]

中畑が監督を辞任した翌年2016年は、後任監督のアレックス・ラミレスによって、球団10年ぶりのAクラスとなる3位に入り、クライマックスシリーズに初進出し、2017年は日本シリーズまで進出した。

人物

中畑家は陸奥石川氏の一族で、前九年の役石川有光の子の九郎光幹が中畑と称したことからはじまる(『白河古事考』)。戦国時代にはその系統の国神城主の中畑晴辰(はるとき)[注 10]が抵抗したために、豊臣秀吉から改易されて、浪人・土農の落ち武者狩りで討たれた(広瀬蒙斎『白河風土記』)。中畑はその晴辰の子孫である[42]

祖父の代に、横浜戸塚で土木業を営み成功したものの、工場に商売替えした後で失敗し、清の父を含む一家とともに帰郷した。中畑は貧しい少年時代を過ごしており、後に「米に牛乳のせる生活体験したらどんなつらい生活でも耐えられるよ」と述懐している。その後、郷里福島での牧畜業で成功した結果、父にグローブを買ってもらったのがきっかけで、野球に本格的に取り組むことになった。

1953年(昭和28年)度生まれのプロ野球選手(梨田昌孝、落合博満、真弓明信吹石徳一など)による親睦会「プロ野球28会」(にっぱちかい)の会長を務めている。また野球・ソフトボールの普及を願い、1983年から故郷・福島で「中畑清旗争奪ソフトボール大会」[43]を毎年開催、2001年から茨城県境町にて女子大会の「中畑清杯争奪中学校女子ソフトボール大会」の名誉会長として後援しているほか、師である長嶋茂雄の名が冠された「長嶋茂雄少年野球教室」の講師としてジュニア世代の指導にあたっている[44]

麻雀[45][46]ゴルフカラオケ愛好家で、カラオケ十八番吉幾三の「酒よ」である[47]。ゴルフでは20年以上に渡り[48]毎年「きよしのドリームチャリティーゴルフ大会」というチャリティーコンペの主催者となり開催しており[49]プロゴルファー飯合肇は駒澤大野球部の同窓である[50]

現役時代の1970年代から40年以上東京調布市内に居を構えており、地域に対する用具・施設・図書の寄付など貢献し[51]、2012年春に市から「調布市宣伝本部長」に任命されている[52]。夫人を癌で亡くしてからは、100坪の邸宅での一人暮らしとなっている。

真木ことみと親交があり、中畑は真木の応援団長を自認している[53]

千葉マリンスタジアムでの駒澤大学野球部戦にて、同じく駒澤大学野球部出身で元千葉商科大学付属高校野球部監督である染谷希一と共に観戦している姿がしばし確認されている。

詳細情報

年度別打撃成績

















































O
P
S
1977 巨人 7 5 5 0 2 0 0 0 2 0 0 0 0 0 0 0 0 1 1 .400 .400 .400 .800
1978 5 3 3 0 1 0 0 0 1 1 0 0 0 0 0 0 0 1 0 .333 .333 .333 .667
1979 100 352 333 42 98 18 3 12 158 45 4 4 6 3 7 0 3 46 8 .294 .312 .474 .787
1980 124 503 459 61 123 15 2 22 208 57 10 8 7 4 28 1 5 53 11 .268 .315 .453 .768
1981 109 440 416 55 134 17 7 16 213 66 10 2 0 3 19 3 2 37 7 .322 .352 .512 .864
1982 124 510 468 56 125 24 5 25 234 78 4 3 0 3 37 2 2 71 10 .267 .322 .500 .822
1983 114 446 416 53 125 20 2 15 194 68 13 1 2 5 22 3 1 39 5 .300 .333 .466 .800
1984 130 550 493 78 145 30 1 31 270 83 4 1 0 2 51 2 4 64 12 .294 .364 .548 .911
1985 125 526 490 71 144 32 2 18 234 62 7 3 2 3 30 1 1 39 11 .294 .334 .478 .812
1986 127 484 447 57 122 29 2 14 197 69 7 5 2 6 27 3 2 67 10 .273 .313 .441 .754
1987 110 413 371 37 119 23 1 6 162 40 6 3 7 5 29 1 1 46 13 .321 .367 .437 .804
1988 124 478 444 46 131 36 2 10 201 46 5 4 4 1 28 5 1 35 18 .295 .338 .453 .790
1989 49 128 113 8 25 6 0 2 37 6 0 2 2 0 12 3 1 24 2 .221 .302 .327 .629
通算:13年 1248 4838 4458 564 1294 250 27 171 2111 621 70 36 32 35 290 24 23 523 108 .290 .334 .474 .808
  • 各年度の太字はリーグ最高

年度別監督成績




























2012 DeNA 6位 144 46 85 13 .351 41.0 66 .233 3.76 58歳
2013 5位 144 64 79 1 .448 23.0 132 .262 4.50 59歳
2014 5位 144 67 75 2 .472 14.5 121 .253 3.76 60歳
2015 6位 143 62 80 1 .437 14.5 109 .249 3.78 61歳
通算:4年 575 239 319 17 .428 Bクラス4回

表彰

野球
自治体
ファッション

記録

初記録
節目の記録
  • 100本塁打:1984年6月16日、対横浜大洋ホエールズ13回戦(横浜スタジアム)、1回表に平松政次から左越先制3ラン ※史上129人目
  • 150本塁打:1986年8月5日、対中日ドラゴンズ19回戦(後楽園球場)、2回裏に小松辰雄から左越ソロ ※史上81人目
  • 1000安打:1986年9月2日、対広島東洋カープ22回戦(広島市民球場)、7回表に小林誠二から左前安打 ※史上146人目
  • 1000試合出場:1987年5月26日、対横浜大洋ホエールズ7回戦(後楽園球場)、5番・三塁手として先発出場 ※史上270人目
その他の記録
  • オールスターゲーム出場:6回(1981年 - 1985年、1988年)

背番号

関連情報

著書

  • 『熱球悲願"絶好調男"の道』(1982年12月、恒文社)ISBN 4770404883
  • 『これからも絶好調で』(1990年6月、ベースボール・マガジン社)ISBN 4583028210
  • 『野球のごっちゃ煮』(2005年10月、刷仙書房)…国立国会図書館の所蔵情報 ※青空うれしとの共著(中畑は監修としてクレジット)。
  • 『諦めるな!』(角川oneテーマ21、2014年3月、ISBN 4041107431)

関連書籍

  • 『めざせ!巨人の星:中畑清物語』(川瀬洋樹著、二見書房(ヒーロー・ブックス)、1980年4月)
  • 『絶好調夫婦』(中畑仁美著、日本テレビ放送網、1990年4月、ISBN 4820390058) ※妻の著書
  • 『がんばれキヨシ監督!!:メゲない中畑清横浜DeNA監督の闘い』(柏英樹著、2012年9月、ISBN 9784750004150)

テレビ・ラジオ出演

横浜DeNA監督退任後の出演番組

ディスコグラフィ

  • 十和田丸(1984年、バップ、VAP 10170-07) 作詞作曲は吉幾三。 b/w「酒、夜、時々…雨」
  • 港(1988年2月11日、バップ、VAP 10290-07) b/w「十和田丸」
  • ときめいて乾杯(1995年、ポニーキャニオン) 真木ことみとのデュエット。真木ことみのアルバム『演歌三昧』に初収録。

CM

ゲームソフト

  • プロ野球JAPAN2001(2001年11月。コナミ。PlayStation 2用ソフト) - 解説者として声の出演
  • THE BASEBALL 2002 バトルボールパーク宣言(2002年3月。上記のマイナーチェンジ版) - 同上

登場作品

脚注

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注釈

  1. ^ 1985年のシーズンオフに月刊現代の企画で親友のラグビー選手、森重隆との対談が企画された。料亭で酒を飲みながらの対談という事もあって終盤には酔いが回った中畑は王監督への不満をぶちまけて「みんな、あの人のことをワン公と呼んでいるよ」という度を越した陰口を口にしてしまう。この対談は月刊現代の紙面に載る事はなく対談そのものが無かった事になったが、対談内容が週刊文春に漏れて紙面に載り大問題になった。
  2. ^ 前年7月21日に法外組合として発足したときに会長へ就任していたが、東京都地方労働委員会から労組認定を受けたことで改めて就任(日本プロ野球選手会 運営組織・構成・変遷)
  3. ^ 療養中の長嶋に配慮し、チーム・メディア含め大会中は「ヘッドコーチ」としていた。
  4. ^ その後2016年オフに代行から中日ドラゴンズの監督へ昇格・就任した中畑の駒澤大学時代の1年後輩にあたる森繁和(当時62歳)が最年長記録を更新したため、2024年現在は史上3番目となっている。
  5. ^ 5月6日の対巨人戦で中村がコーチに対し「自分の打席では、場面によっては走者を動かさず、打席に集中させてほしい」と相談したことを、中畑が「采配批判」と見なし二軍へ降格させた[24][25]。なお、中村はこの降格以降1度も一軍に上がることのないまま10月3日に戦力外通告を受け退団している。
  6. ^ なおこの年のセ・リーグの最終順位は前年と全く同じであった。
  7. ^ 2015年から交流戦は18試合制となり、1チームそれぞれ3球団とホームゲーム3連戦1回、残り3球団とビジターゲーム3連戦1回の日程に変更。翌年はこの逆の日程で、2年1セットの設定となった。
  8. ^ チームは翌2016年以降の8シーズンで5回のAクラス入り(うち2017年は3位からクライマックスシリーズを突破しリーグ優勝した1998年以来19年ぶりの日本シリーズ進出)を果たしており、最下位は2021年の一度のみである(2023年シーズン終了時点)。
  9. ^ シーズン終盤の9月25日の中日ドラゴンズ戦では9回151球を投げさせている。
  10. ^ 晴辰にとって中畑家は母系の血筋としてであり、父系の血筋は白河結城氏小峰氏)である。
  11. ^ 茨城放送・北日本放送にも部分ネット。

出典

  1. ^ 【小林繁伝】控えに回った巨人の篠塚に「必ずチャンスはくる」 虎番疾風録其の四(383) - 産経ニュース
  2. ^ 「シノさん、しっかり伝えてよ!」監督・原辰徳の厳しさを盟友・篠塚和典が明かす (3ページ目) web Sportiva
  3. ^ 玉木正之『プロ野球大事典』新潮文庫、1990年
  4. ^ 『プロ野球「スキャンダル事件史」大全』 宝島社 2015年 ISBN 4800245451
  5. ^ 「“長嶋茂雄”になれずも“記憶に残る”選手に。ファンに愛された巨人の“絶好調男”は | 野球コラム」『週刊ベースボールONLINE』2021年2月24日。2022年5月15日閲覧
  6. ^ 週刊ベースボール2020年7月13日号、17頁
  7. ^ 「HOT TOPICチーム打率最下位は過去9回。巨人打線が“最弱”だったのはいつ?」週刊ベースボール、2021年4月19日。2023年10月8日閲覧
  8. ^ 「ハダカの長嶋巨人(5)」東京スポーツ、2014年3月3日。2014年3月3日閲覧
  9. ^ 松井氏、故・中畑夫人へ恩返しのために横浜DeNAに来た! The page 2015年2月5日
  10. ^ 長嶋がいて、松井がいた1 中畑清元巨人コーチ、現DeNA監督が見た“ミスター”と“ゴジ”の関係性 週刊ベースボールonline 2013年5月11日
  11. ^ 週刊ベースボール2020年7月20日号、26頁
  12. ^ 松井氏「奥様への恩返し」亡き中畑夫人手料理に感謝のDeNA視察 スポーツニッポン 2015年2月6日
  13. ^ 週刊ベースボール2020年7月20日号、27頁
  14. ^ 「悔いはない! 2004年アテネ五輪で敗れた思い出 中畑清の「絶好調視点」vol.33 | Baseball Crix(ベースボールクリックス)」『web.archive.org』2018年9月21日。2022年5月15日閲覧
  15. ^ 「中畑清「舌好調」24連打(3)五輪や参院選でもギャグ爆発」『アサ芸プラス』2012年2月23日。2022年5月15日閲覧
  16. ^ 「中畑清氏参院選!「たちあがれ日本」が擁立へ」『スポーツニッポン』スポーツニッポン新聞社、2010年5月9日。2010年5月9日閲覧
  17. ^ 中畑氏 正式出馬表明! 長嶋氏「政界で羽ばたけ」 スポーツニッポン 2010年5月12日閲覧
  18. ^ 「中畑氏 すでに「たちあがれ日本」離党「お話があれば前向きに」」『スポーツニッポン』スポーツニッポン新聞社、2011年12月6日。2010年12月6日閲覧
  19. ^ 「【横浜】中畑監督発表「身震いする思い」」日刊スポーツ、2011年12月9日。2011年12月9日閲覧
  20. ^ 「DeNA初代監督・中畑清インタビュー 「DeNAを愛していたし、ファンからも愛された4年間だった」 「自分の思いどおりのチーム作りと人間作りができたと思っている」 | 野球コラム」『週刊ベースボールONLINE』2021年4月26日。2022年5月15日閲覧
  21. ^ 爆笑“キヨシ節”さく裂…「ベースボールフェスタin浪江町」 スポーツ報知 2018年11月24日
  22. ^ 「DeNA中畑監督の妻・仁美さん死去 子宮頸がん」スポニチ、2012年12月5日。2012年12月5日閲覧
  23. ^ 朝日新聞2013年9月25日スポーツ面
  24. ^ a b 「ノリが登録抹消 DeNA中畑監督「チーム方針に従わない言動があった」」『東スポWeb』2014年5月7日。2022年5月15日閲覧
  25. ^ a b 「DeNA・ノリ、また造反 進退危機? 発端は「走者動かさず打席に集中させて」」『ZAKZAK』2014年5月9日。2024年4月21日閲覧
  26. ^ 「労組審判支部がDeNAに抗議文 中畑監督「厳粛に受け止めている」」スポニチ、2014年9月6日。2014年9月6日閲覧
  27. ^ 「コーチ人事で決裂…中畑監督 辞意正式表明「俺が辞めるしかない」」スポーツニッポン、2015年10月3日。2015年10月4日閲覧
  28. ^ 「中畑監督辞任 本当の理由は「デーブ入閣却下」」『東スポWEB』2015年10月6日。2024年4月25日閲覧
  29. ^ 中畑氏が巨人OB会副会長に就任 「今年、ジャイアンツは最下位だと思ったら盛り返した
  30. ^ 「巨人軍OB会新会長に中畑氏~2019年総会」『読売ジャイアンツ(巨人軍)公式サイト』2019年12月7日。2024年4月21日閲覧
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  36. ^ 「【DeNA】キヨシ厳命 梶谷に2軍行き - プロ野球ニュース」『日刊スポーツ』2013年4月9日。2022年5月15日閲覧
  37. ^ 「鬼キヨシ制裁!石川、無期限2軍&主将剥奪」『スポーツ報知』2013年5月25日。2013年5月25日閲覧
  38. ^ 「前代未聞!中畑監督、羽田でソーサに「帰れ!」怒りの登録抹消」『スポニチ Sponichi Annex』2014年4月22日。2022年5月15日閲覧
  39. ^ 中村紀 2軍落ちは懲罰降格だった!采配批判に中畑監督が決断 Sponichi Annex 2012年8月31日
  40. ^ Sports Graphic Number」文藝春秋、2015年11月19日号、p48-p49
  41. ^ Sports Graphic Number」文藝春秋、2015年11月19日号、p33
  42. ^ NHK『ファミリーヒストリー』2017年11月22日放送分
  43. ^ 中畑清氏子供たちにエール「君たちが元気なら福島は元気」中畑清旗争奪ソフト スポーツニッポン 2018年8月4日
  44. ^ 中畑清現役彷彿とさせる一振り「長嶋ファミリーみんな頑張ります!」 テレビ東京/追跡LIVE!SPORTSウォッチャー 2018年11月12日配信
  45. ^ 山本功児・なんとなく幸せ(12)麻雀は大先輩との交流の場 東京スポーツ 2012年11月13日
  46. ^ 選手にマージャンのススメ・楽天星野流の洞察力育成プラン 夕刊フジ 2014年2月28日
  47. ^ 中畑清「舌好調」24連打(2)カラオケの十八番は「酒よ」 アサヒ芸能 2012年2月22日
  48. ^ 中畑監督のきよしドリームチャリティゴルフ参加 篠塚和典オフィシャルブログ 2011年11月25日
  49. ^ 中畑清さんの『きよしのドリームチャリティーゴルフ』にご招待をいただきました CALWING 2009年11月
  50. ^ 歌にゴルフ、趣味は人を前向きにさせてくれる・中畑清の「絶好調視点」vol.41 Baseball Crix 2017年2月22日
  51. ^ 中畑さん、監督就任報告・6日、調布市文化会館で 朝日新聞 2012年1月6日
  52. ^ 初代「調布市宣伝本部長」に「熱いぜ横浜DeNAベイスターズ中畑清監督」が就任されました 2012年2月15日 調布市公式ウェブサイト
  53. ^ 「中畑清氏、妹分・真木ことみ30周年を替え歌で激励「ことみが幸せならそれでいい」」デイリースポーツ online、2022年8月11日。2022年8月11日閲覧
  54. ^ 「歴史と観光「ハッピーハンド」」幸手市観光協会。2017年9月13日閲覧
  55. ^ 「中畑前De監督 名誉町民第1号に」『デイリースポーツ』株式会社デイリースポーツ、2015年12月25日。2015年12月28日閲覧
  56. ^ 参考:『ラジオ番組表 2005春』(2005年5月、三才ブックス。書籍コード:ISBN 4861990076)に掲載された、ラジオ日本の番組表。
  57. ^ 「中畑清、16年ぶりドラマ出演 芳根京子に熱血指導「運動神経はいいんじゃない?」」『マイナビニュース』マイナビ、2023年3月20日。2023年3月20日閲覧
  58. ^ 「中畑清監督:「絶好調!」な素振りを披露 モバゲー新CMに登場」『まんたんウェブ』2012年3月14日。2024年4月21日閲覧

参考文献

関連項目

※校内に中畑清記念室が設けられている。

外部リンク

  • 個人年度別成績 中畑清 - NPB.jp 日本野球機構
  • 選手の各国通算成績 Baseball-Reference (Japan)
  • 選手情報 - 週刊ベースボールONLINE
  • 中畑清 (@kiyoshi24gno) - X(旧Twitter)
  • 【WebマガジンB-plus スペシャルインタビュー 中畑清】
  • ほぼ日刊イトイ新聞 中畑清は、監督になった。
  • 今日も絶好調
 
関連項目
初代 - 10代
1950年代
1960年代
1970年代
1980年代
1990年代
2000年代
2010年代
2020年代
1970年代
1980年代
  • 1980 王貞治
  • 1981 藤田平
  • 1982 中畑清
  • 1983 中畑清
  • 1984 中畑清
  • 1985 中畑清
  • 1986 中畑清
  • 1987 中畑清
  • 1988 中畑清
  • 1989 駒田徳広
1990年代
2000年代
2010年代
2020年代
1972年から1985年まではダイヤモンドグラブ賞
スポーツMAX歴代キャスター・コメンテーター
期間 キャスター コメンテーター
月・火・金 水・木
1997.9.29 1998.10.2 関谷亜矢子 中畑清 山本浩二 掛布雅之
1998.10.5 2001.12.28 角田久美子 松岡修造 中畑清
2002.1.4 2003.3.28 西尾由佳理
2003.3.31 2004.4.2 西尾由佳理 山本舞衣子 中畑清 長嶋一茂 宮本和知 掛布雅之
2004.4.5 2004.11.26 北澤豪
2004.11.29 2004.12.24 西尾由佳理
2005.1.4 2005.4.1 西尾由佳理 杉上佐智枝
2005.4.4 2005.9.30 阿部哲子
 
日本の旗 野球日本代表
日本の旗 野球日本代表 - 1973年日米大学野球選手権大会
監督
コーチ
投手
捕手
内野手
外野手
日本の旗 野球日本代表 - 1975年日米大学野球選手権大会
監督
投手
捕手
内野手
外野手
日本の旗 野球日本代表 - 2003年アジア野球選手権大会 1 1位
監督
コーチ
投手
捕手
内野手
外野手
日本の旗 オリンピック野球日本代表監督 2004・アテネ
日本の旗 野球日本代表 - 2004 アテネオリンピック(監督) 33位 銅メダル
監督

33 中畑清

コーチ
  • 31 高木豊(守備・走塁)
  • 32 大野豊(投手)
投手
捕手
内野手
外野手
横浜DeNAベイスターズ監督 2012 - 2015
読売ジャイアンツ - 1975年ドラフト指名選手
指名選手
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